第 一 部


第七章 日本の植民地の実態(2)


( 台 湾 )

 台湾は日本の植民地となるまで一六二四年からオランダ・スペイン・東寧王朝・清王朝と外国による支配を受け続けた国であった。しかし日本の植民地になるまでは国土は荒れ果て、国民は疫病に苦しむ島国であった。

  日本国内でもその統治方法について意見が分かれていた。原敬(外務省通産局長)などは、当時のフランスの植民地統治の形態を参考にして台湾を新しい国土として扱うべきだと主張した。伊藤首相は台湾の武力抗戦などの実状を考え「武官総督制」を決定した。確かに帝国憲法を台湾住民に直接適応する事が出来ない「武官総督制」では新領土でなく、植民地であったが、政策面では内地延長主義が採用された。

  日本が最初の着手した事は、あまりにひどい衛生環境の改善であった。日本人の衛生感覚は当時の世界の中でも高く、アメリカのペリーやハリスの手記に江戸の人々が当時のヨーロッパの街に住む人々の生活よりはるかに清潔な生活をしている事に驚いた事が記されている。それ故日本人は台湾の衛生改善なくしては、その統治さえできなかった。

  内務省衛生局長であった後藤新平は、キリスト教の宣教師が医学や衛生知識の普及を行った事を参考に「公医」制度を採用し、医学校の建設や医院の設立を行った。この結果死亡率は驚くほど減少した。更に上下水道の整備は「水売り」の妨害を受けつつ東京よりも早く完成した。衛生問題と同時に進行した改善は土地の私有権の確立と税収の確保であった。 明治維新に於ける地租改正、廃藩置県を台湾でも行った。これにより近代的産業基盤を作っていった。

  電力開発も重要な近代化への道であった。亀小水力発電所、日月潭ダムなどを次々と作り上げていった。大東亜戦争の終戦時、中国全土の発電量の三分の一を台湾が発電していた事実をみても、日本がいかに台湾に投資していたかわかるであろう。

  山が多い台湾では林業が有望であった。一度も手が入らなかった森林を整備し、阿里山に桧の大森林が発見されるや森林鉄道の敷設を行い、世界三大山岳鉄道と言われ、現在でも観光用に利用されている。台湾の森林は日本領有時代には計画的に植林、伐採を行い、自然環境の保全はしっかり行われていたが、国民政府の無計画な伐採により禿げ山が拡大してしまっている。

  次に交通問題を見てみよう。日本領有以前の台湾は孤立社会の集合体であった。地形を見てもわかるが中央部を山脈が縦走し、山からは海に向かって川が無数に流れている。川により地域は分断され道らしい道はほとんど無かった。これは匪賊が横行し住民が安全の為に道を作りたがらなかった事にもよる。清朝支配の時代に基隆から新竹まで百キロに及ぶ鉄道を作ったことがある(一八八七年)がほとんど使用する事なく建設は中断され放棄してしまった。


つづく

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