第 一 部


第七章 日本の植民地の実態(1)

 前回「韓国併合」について記したが、この日本の植民地の政策について余りにも誤った認識が多く、その認識に基づいた贖罪主義が戦後の歴史観を作り上げ、我が国の外交を歪めたものにしてしまっている。それ故に朝鮮問題だけでなく、台湾、満州を含めた日本の植民地の真実を明らかにしてゆきたい。

 日本で植民地主義が悪の象徴・諸悪の根元とみなされるようになったのは、戦後になってからである。そのような見方が通説になり、それに対する疑問も反論も許されなかった。植民地に対し日本が「良い事をした」とか、「悪い事をした」とか二者択一的論議はあまり意味のない事であり、アジアの近代化のためにいかに大きな歴史的貢献をしたのかという視点こそ重要であり、現在に於いて日本の植民地が驚異的近代化を為し遂げ、アジアのリーダー的存在に成長した事実こそ全てを物語っているのだ。


日本の植民地主義は 内地延長主義

 日本は植民地に何を求めたのであろうか。植民地の一般的捉え方、後進国に対する労働力の略取、農産物、鉱産物の簒奪、商品市場、資本の輸出先などにするという、徹底的な略奪形態を指している。しかしヨーロッパ諸国の植民地でもキリスト教の異教徒への布教、交易などが目的とされた。特にイスラム教に対する十字軍的征服がキリスト教的「正義」と複合され植民地は正当化された。

 もう一つの側面、それは白人による有色人種への支配の正当化であった。「白濠主義」とも言える白人至上主義は欧米諸国にとって現在に於いても底辺を流れる根源的思潮と言えるだろう。だがこの植民地によって世界の近代化が達成できた事も真実である。それ故国際連盟の規約第二十二条には「近代世界の激甚なる生存競争の下に、未だ自立せざる人民の居住せるものに対しては該人民の福祉及び発展を計るは、文明の神聖なる使命」であると明記し、植民地統治は列強の倫理的使命とみなされ、その時代の精神・主義であった。

 日本が最初に植民地問題に直面したのは日清戦争に勝利し、下関条約を結び、台湾を日本の管理下に置いた事によってであった。当時の日本は西欧諸国との不平等条約のなかで未だ世界的には認知されていない国であった。しかし清との下関条約は国際的に認められた条約であり不法占拠ではない。当時の国際常識の中で全く正当な領土割譲と言える。日本軍五百名は清国軍七万名の抵抗を苦もなく撃退し総督府を設置した。当時の台湾は荒れ果てた島であった。一応清国の領土になっていたが清は領有に熱心ではなかった。日本も当初はもてあまし、フランスに売却する話が出たぐらいであった。

 日本が最初に着手した事は衛生事業であり、基隆病院開設は行政の開始に先立って行われた。ちなみに台湾の平均寿命が三十才だった事はいかに衛生状態が悪かったかを示している。

 

つづく

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