第 一 部


第七章 韓国併合

 日露戦争の勝利によって日本は朝鮮の支配を国際的に認められ、保護国化を推し進めた。世界に通用する国家として日本が認められるためには第一に近代国家としての憲法の制定であり、これは大日本帝国憲法として明治二十二年に制定した。翌年教育勅語が発布され、学校令の発布と合せて教育制度の基礎が固められた。このように国内的法的統治がなされ、第二には対外的な不平等条約の撤廃と新条約の締結、関税自主権の回復であり、日露戦争の勝利によってこれも成功した。

 そして第三は世界の大国とのパワーバランスの保持であった。日英同盟により有利な状況があったとは言え、逆に北東アジアに対する日本の役割は重くならざるをえなかった。何か現在の日本の状況と似ているような感じだが、世界中が帝国主義国化し、植民地争奪戦を行っている中で、日本の選択肢はほとんど無かった。


  左:伊藤博文
  右:伊藤博文を暗殺した安重根

  アジアの中で日本以外に大国(普通の国)が無く、実質的に植民地化されてしまっているアジアの中で日本の責務は重大であった。日英同盟の更新(一九〇五年)の時イギリスは日本の朝鮮支配の承認と引きかえにインドの防衛を義務付けた。アメリカとは朝鮮とフィリピンの相互支配の承認の覚え書きを交わした。フランスもインドシナ支配の承認を日本に求め、代りに日本の朝鮮支配を認めた。

  このように列強の取り決めの中に封じ込められた日本は朝鮮支配を国際的任務とせざるを得なかった。日露戦争後世界は大きく変わっていった。世界を二分していた英・露は仏と三国協商を結び世界支配を保持しようとしていた。これに対抗するようにドイツ・オーストリア・イタリアが三国同盟を結び第一次世界大戦への道を歩み始めた。

  日本は元老伊藤博文を韓国に派遣し、首都漢城(ソウル)に統監府を置き保護国とした。日本の朝鮮支配は強引に併合したと言うよりも朝鮮の希望という側面が強かった。

  初代韓国統監であった元老伊藤博文を安重根がハルピン駅で射殺するという大事件が発生した。

  ロシアを戦争で打ち負かした日本の最高実力者を暗殺したのであるから、韓国議会は日本の報復を恐れ直ちに日本への併合を決議してしまった。日本は朝鮮総督府を置いて支配していった。日本の併合政策は基本的に朝鮮の近代化を推し進めるものであった。日本の近代化の成功は国民教育の充実にその原因がある事を認識していたので朝鮮に於いても学校教育の整備を行った。小・中・高どころか帝国大学まで作り教育に力を入れた。

  更に道路、鉄道を整備し産業の基礎作りを行った。このあたりが西欧列強と全く違っていた。イギリスやフランスの植民地支配はその国民の学問を禁止し母国の学校に一部のエリートを育成し、代理支配をさせるという愚民政策を徹底させ国民の反抗を封じ込めるものであった。つづく


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