【尖閣諸島の歴史概要】

平成19年04月26日


  尖閣諸島は古くから琉球民族に知られており、大正島(国有地)は久米島に近いことから、19世紀後半から赤久米島と呼ばれていました。

  尖閣諸島の名称は、欧米諸国が通商の目的で来覇した軍艦が作成した海図や水路誌に記述されていますが、いずれの国にも属さない地域として国際法上の無主地でした。

  明治維新後は、明治5年に琉球王朝が琉球藩となり、明治7年に内務省の直轄となりました。明治12年に琉球藩が廃止されて沖縄県となり、明治18年に沖縄県知事が実態調査を行うにあたって、尖閣諸島に国標を建立すべく内務省に上申書を提出したところ、内務省は「沖縄県が実態調査の上で国標を建立することに差し支えない」との見解を示しています。つまり、尖閣諸島は、どこの国からも領土主権を主張されておらず、無主地であると内務省も考えていたのです。

  日本政府はこの明治18年以来、沖縄県当局を通じるなどして、尖閣諸島の実態調査を行い、「この諸島が清国に所属する証拠はない」と判断した後の明治28年に先占論によって日本の領土であることを閣議決定しました。以来、尖閣諸島は日本の領土となったのです。

  そして明治17年に尖閣諸島に調査団を派遣した古賀辰四郎氏が明治18年から二度にわたって申請していた魚釣島など四島の「借用願」は、その後、10年を経過した明治29年に、ようやく同諸島の大正島(国有地)を除いた四島を30年間無料貸与される許可を受けることができたのです。

  古賀辰四郎氏は大規模な資金力によって尖閣諸島の開拓に着手。明治42年には、これらの功によって日本政府から古賀辰四郎氏に勲章「藍綬褒章」が授与されました。その後、島の開拓は、古賀辰四郎氏の子息である古賀善次氏が引き継ぎ、全盛期には200人を超える人たちが魚釣島に居住して産業開発に努めました。

  大正15年に30年間無料貸与期間が終了したことにともない、以後1年契約の有料賃与に改めたましたが、昭和7年3月31日、日本政府は、古賀氏に尖閣諸島の中の四島を有料で払い下げたのです。しかしこの事業も第二次世界大戦直前には、船舶燃料が配給制になったために渡島ができなくなり廃止となっていましたが、昭和43年に国連の海洋調査団が、この海域の海底調査を行った結果を、昭和44年に国連アジア極東経済委員会(ECAFE)によって、この海域に膨大な海底資源が眠っていることが明かされたことから一躍脚光をあびるようになりました。

  この調査結果には台湾、中国だけでなく、日本もの大きな関心をよせ、昭和44年と45年の2度にわたって、日本政府は東海大学に委託して、尖閣諸島周辺海域の海底調査を行わせたところ、海底に石油の根源石である海成新第三紀堆積層が、尖閣諸島を中心に20万キロ広がり、その層厚が3000メートル以上に及んでいることが分かったことが、領土紛争の発端となりました。

  この領有問題がマスコミに取り上げられたのは昭和45年7月に台湾政府がアメリカのガルフ・オイルの子会社パシュフィック・ガルフ社に、北緯27度以南の台湾北東海域(尖閣諸島が全部入る)の探査権を許可したことにはじまります。これに対して、わが国政府は同年8月、愛知外相(当時)が参院沖縄・北方特別委員会で台湾政府がとった措置は国際法上違法であり、その旨を台湾政府に申し入れたことを明らかにしました。

 この問題は、その後、台湾政府が探査採掘の権利は台湾政府にある旨を表明、同政府立法院で尖閣諸島の領有権は台湾にあると言明したのです。また台湾水産試験所所属の海憲丸が魚釣島に晴天白日旗を立てるなどの行為を行ってわが国政府の申し入れを拒否する姿勢をとりました。これに対してわが国政府は台湾政府に抗議して大陸棚問題に関して交渉することを再度申し入れましたが、実質的には殆ど進展しませんでした。一方、中国も台湾政府のとった措置は中国の領土侵犯であると非難したのです。

 昭和46年の沖縄返還に際して、アメリカ国務省は「アメリカは尖閣諸島を含む南西諸島」の施設権を47年中に日本に返還する」旨の見解を発表。またアメリカ上院外交委は沖縄返還協定の審議にあたって本会議への勧告書の中で「沖縄返還協定の取り決めは尖閣諸島に関するいかなる国の主権保有の主張にも影響を及ぼさないことを確認する」との見解を公式に表明して本会議を支持を得ました。

 その後、尖閣諸島の領有問題は日中間で棚上げされたまま対立が続いていたのです。その理由は、わが国政府に日中平和友好条約交渉に尖閣諸島の領有問題を出すのはマイナスとの判断があったからに他なりません。

 ところが昭和53年4月の中国の武装漁船団がわが国の領海を侵犯する事件が発生、わが国政府に大きな衝撃を与えました。私たちはこの中国の領海侵犯事件をわが国家主権の侵害と受け止めて危機感を強め、自らの手によって尖閣諸島を実効支配するために「上陸決死隊」を結成し、同年8月11日、同諸島魚釣島に上陸して灯台を建設、同12日、日中平和友好条約調印の日に、建設した灯台にはじめて「尖閣の灯」をともしたのです。

  昭和63年には灯台建設から10年経ったことを記念して現在の第2灯台を建設しましたが、この灯台は海上保安庁の指導を受けて建設した灯台であり、すでに一級灯台の資格を備えていたのも関わらず、政府は、私たちが再々にわたって提出した認可申請を「時期尚早」と言う理由のみで、無視してきましたが、中国に配慮した軟弱外交に終始する歴代内閣と外務官僚の自己保身以外のなにもでもありませんでした。

  そのような状況下で、私たちが艱難辛苦を乗り越えて守り通してた尖閣諸島魚釣島の灯台は、政府から国家で管理したいとの申し出を受けたことから、平成17年2月9日付けをもって無償移譲したことによって正式に国有灯台となり、現在は国家機関が維持管理を継続しています。

  私たちは本年、灯台国家移譲から満二年を迎えたことを機に灯台建設から27年にわたって取り組んだ尖閣諸島実効支配の戦いを心身ともに支えてくださった沖縄県八重山の方々に直接、感謝の意を申し上げるために1月28日から2月1日までの5日間、石垣島・西表島・与那国島をはじめとする八重山諸島を表敬訪問しました。

表敬訪問の報告はこちら↓
沖縄県八重山諸島表敬訪問報告

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