男鹿脇本事件・・・1981(昭和56)年8月5日
秋田県男鹿市脇本漁港で職務質問された3人のうち、2人は迎えのゴムボートで逃走したが、逮捕された尹敏哲は北朝鮮で工作員訓練を受けて戻った直後だった。

工作員回収事件・・・1982(昭和57)年6月
朝鮮労働党作戦部の李相哲(83年12月3日に勧告に潜入後逮捕・帰順)は、1982年6月のある日の午後8時頃、山口県長門市の沖合いの海上から小舟で接近し、ゴムボートに乗り換えて岩場に上陸して、日本に送り込まれていた工作員を回収した。

金錫斗事件・・・1986(昭和60)年3月1日
日本人「小住健蔵」を名乗る氏名不詳の北朝鮮の工作員は、1970年夏に秋田県の男鹿半島から潜入し、東京で日本人未亡人と同棲しながら、任務を遂行していた。「小住健蔵」は豊島事件の申栄萬や金錫斗に指令していた大物工作員で、小住健蔵名義の偽造パスポートで日本から出入国を繰り返しており、現在も逮捕されていない。

第31幸栄丸事件・・・1985(昭和60)年4月25日
宮崎県日南鵜戸崎の東南20kmの海上を北に向かう「第31幸栄丸」表示された挑戦運搬船を、漁業監視船が発見、臨検のため接近すると、不審船は猛烈なスピードで逃走した。連絡を受けた第10管区海上保安本部は、空と海から2昼夜(38時間半)にわたって約1000kmを追跡した。しかし、不審船は時速32ノットのスピードで東シナ海に西進して、27日午前1時過ぎ、屋久島の北西約610kmの東シナ海海上で姿を消したが、南浦湊に帰還したことが確認された。

辛光洙事件・・・1985(昭和60)年6月25日
人民武力部偵察局の工作員だった辛光洙は元山を出港して、1973年7月4日に石川県鳳至群猿山灯台付近の海岸から潜入し対韓工作に従事していたが、帰国命令によって76年9月12日に富山県骨川市の河口から脱出した。北朝鮮で3年間の教育・訓練ののち、80年4月10日に南捕を出港、宮崎県日向海岸から潜入し、中華料理店のコックだった原敕晃氏を拉致して、6月20日に再び宮崎県青島海岸から北朝鮮に戻った。80年11月26日、辛光洙は宮崎県青島海水浴場の「子供の国」から3度゛目の潜入を果たし、東京で「原敕晃」として生活し、82年3月23日、原敕晃名義のパスポートで成田空港から日本を出国し、北朝鮮に帰還した。そして、82年5月3日、平壌からスイスを経由して偽造パスポートで日本に入国した。以後出入国を繰り返し、85年4月24日に韓国に入国したが、その招待が発覚し韓国案企部に逮捕された。
当時に逮捕された在日朝鮮人の金吉旭は、1978年3月30日に福井県大飯群の大島半島付近の海岸から脱出し、清津港に上陸した。北朝鮮で指示を受けた後、78年4月29日に再び大島半島付近から潜入していた。