第 一 部


第七章 日本の植民地の実態《朝鮮(二)》

  前回「大韓帝国の誕生」として、日韓併合までの過程を記した。

  最近韓国で二つの問題が持ち上がった。一つは中国が高句麗は中国の一部であったと発表した事に対して韓国政府が猛反発した事であり、もう一つは与党ウリ党の党首の父親が「親日派」であったとして議長を辞職した。   奇妙なことに、中国は「歴史の問題を政治に持ち込む事は反対だ」と対日本とは正反対の対応をした。又日韓併合で韓国人は、日本人になった訳だから韓国の全国民は「親日派」であり、誰かが責任をとるという問題ではない筈である。日清戦争が朝鮮独立のための戦争であったのに対し、日露戦争は韓国(独立朝鮮=大韓帝国)保全の戦争であった。韓国は常に強い者に従う体質を持っていた。 日露の主導権争いの中で、ロシアが強ければロシア、日本が強ければ日本と揺れ動くのである。

  韓国は日本と合邦し幸運を得た。李王朝は互解寸前であった。もしロシア、イギリス、清国の植民地となっていたら「王朝の悲劇」は免れなかった。日本は朝鮮の皇族・重臣・功労者たちを華族として叙爵した。皇室に百十五万円の歳費と皇室典範を与え、計七十六名に貴族の爵位を与えた。近代化の嵐の中で多くの王室がギロチンの露と消える中で、大韓帝国の皇帝は安定していた。

  日本は「朝鮮国王を奪った」のでなく救ったのだ。

  次に破産国家であった朝鮮を、日本がどのようにして救ったのかを具体的に検証してみよう。台湾と同様、朝鮮は飢えと疫病の国であり、国民は疲弊の極にあった。朝鮮総督府が最初に行った事業は土地制度と租税制度の確立の為の「全国土地調査」であった。それまでの土地制度は、全ての土地を公有地とし世襲は認めなかった。 しかしそれは建前で有力豪族や官吏は公然と私有地を持ち、土地制度は混乱していた。(日本は明治六年に地租改正が行われ、近代的土地制度が確立していた。この混乱に終止符を打つ「全国土地調査」であった。この結果朝鮮の土地は倍増した。それは豪族たちが隠していた土地が公になった為である。そして租税徴収の体制が作られ国家の体を為すのだが、台湾の四倍の人口がありながら税収は台湾と同じという貧弱な経済であり、日本の巨額な投資なしでは国家建設は不可能であった。併合前、伊藤博文は「統監」として一千万円の援助資金の貸付を断行した。統督府時代には益々増額され昭和二十年に至るまで延々と続くのである。

  朝鮮経済の発展は日本人の税金によって支えられるという超過保護政策そのものであった。何故超過保護かというと、援助資金の貸付だけでなく、日本から朝鮮への製品は移入税という関税を取り、逆に朝鮮から日本への製品移入に関しては一切免除し、朝鮮の産業の育成を行ったからである。


つづく

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