第 一 部


第七章 日本の植民地の実態(朝鮮)

大韓帝国の誕生

 「韓国が有史以来、独立を失ったのは、後にも先にも日帝三十六年の時代だけである。それ以前は、ずっと独立・主権国家だった」と韓国人は主張するが果たしてそうであろうか。扶桑社の「新しい歴史教科書」が検定を通過すると、韓国政府が激しく抗議した。それは、韓国は中国の服属国であったと記述されていた事への抗議であった。下関条約の第一条には「清国は朝鮮の独立を承認する」とはっきり明記されている。日清戦争の目的のひとつとして朝鮮の独立があったからだ。「中国朝鮮商民水陸貿易章程」(一八八二年)に於いても「古代から属国であるので、清国政府とのすべての問題における交通の規範は固定されており、変更の必要はない」記されている。


 ではいつから中国の属国になったのかというと不明のこともあるが、統一新羅(六六八〜九三五)の頃だと思われる。唐の力を借りて三国統一を為し遂げた統一新羅は唐に忠誠を誓い、属国関係を続けていた。李朝時代になると明との関係は国号と王位を下賜されるという決定的な形になった。日清戦争の結果、朝鮮は初めて独立国家、大韓帝国となり、朝鮮独自の年号を史上初めて使う事ができたのである。日韓併合は大韓帝国と日本の合邦だったのでそう呼ばれた訳で日朝併合とは言わない。当時の朝鮮は清が支配を強め朝鮮人はその植民地支配に苦しめられていた。清から派遣されソウルを支配した衰世凱は三千人の部下を引き連れ、暴れまくった。市民を掠奪、暴行し、女性は強引にキーセンにされ乱暴するという無茶苦茶な支配であり、誰も止める事ができなかった。日清戦争は少なくとも朝鮮から清国兵を追放し、朝鮮人白身による独立国家を創る事が出来たのである。しかし防衛力をほとんど持たない大韓帝国はロシアからの侵略に耐える事が出来なかった。日本は産声をあげたばかりの韓国を檸檸なロシアの餌食にするわけにはいかなかった。日露戦争で日本が優勢になってくると韓国は「親露」から「親日」に態度を変えた。そして日韓議定書を結び日本を支持した。議定書は協約に変わり韓国は正式に日本の保護国になった。


 日露戦争で日本が勝利すると韓国は第二次、第三次と協約を結び外交権を日本に渡し完全に日本の保護国になった。


 国防力を強める為に徴兵制も考えられたが、国情不安な中ではかえって混乱を招くとして、総力一万の兵を解散した。これに不満を持つ兵士が「義兵」と称して反乱を起こした。治安が乱れ、今のイラクのような状況が生まれた。伊藤博文は合邦には「厄介である」として反対していたが、日露協約でロシアの同意をとりつけてからは反対はしなくなった。


 実際に併合が行われたのは、安重根に伊藤博文が暗殺され(一九〇九)た事によっで合邦が実現した。

つづく

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