第 一 部

 


第七章 日本の植民地の実態《満州(一)
 
 中華帝国にとっては有史以来、万里の長城をもって北の国境線としていた。少なくともモンゴル人や満州人がそこを越えて中国を征服した時代以外は、そこは中国の防壁であり、外は外国であった。満州を中国の東北地区のような感じで「中国東北部」と呼ぶ人々がいるが、中国の侵略史観を肯定的に捉えた考えとしか言いようがない。満州国は清朝政府が復活したものであり、その力量がない故に日本政府が力を貸したにすぎない。

 日露戦争の日本の勝利は満州の運命を大きく変えた。義和団の乱(一九〇〇年)を契期にロシア軍は全満州を占領した。そこで日本をはじめ、列国との対立が起こった。日本は朝鮮半島から清の脅威を取り除いたが、今度はロシアが脅威となった。

  日本は最大の軍事国英国と日英同盟を結び、ロシアと対抗し日露戦争を闘い勝利した。当時弱体化した清国の分割は、英仏独露の間ですでに決められており、もし日本が負けてたら、清国の分割、植民地化は免れなかったであろう。それどころか、日露戦争で日本が敗れたら、アジア全体が西欧列強の植民地にされ、歴史は大きく変わった展開をしたであろう。

  二十世紀のアジアの民族独立運動は日本の勝利によって大きく前進し、アジア諸国に希望の光を与えたのだ。


満州事変

 満州事変の発端は一九三一年柳条溝事件であった。これは日本が防衛する満州鉄道を張学良が爆破し、その本拠地北大営を関東軍が攻撃するという事件であった。しかし実際には関東軍の自作自演であった事が戦後明らかになった。

日本は日露戦争以降満州に鉄道を敷設し、産業を興した。関東軍が治安を守り安全を確保していたので、中国々内の内乱からのがれた人々がこの地に殺到した。人口も辛亥革命当時の千八百万人から、事変勃発時には三千万人に達していた。 日本の満鉄が産業の基幹とみた張作霖は、張学良と二代にわたって満鉄包囲鉄道の建設に着手し、満鉄の東西に日中間の条約に違反する平行線を敷設し、日本に大打撃を与えた。

  中国々内では排日、侮日行動が激しくなり、日本人の商工業、農業をする為の土地貸与を禁じた。張学良は三十万の兵力を持って日本人を攻撃し、その財産と生命を奪った。関東軍はあくまで満鉄防衛の為の存在であったので総数一万四千余名にすぎなかった。しかし関東軍は一撃で二十倍以上の張学良軍を総崩れに追い込み満州から駆逐した。このような関東軍の勝利は、関東軍が強かったというより張学良軍が弱すぎたからに外ならない。張学良の圧政に苦しんでいた民家は日本軍勝利を喜び各地で続々と独立運動がわき起こった。各地で独立宣言が行われ、一九三二年、全満建国促進運動連合大会が奉天で開催された。ここには各地の代表七百人が集結し、満州建国を宣言した。

 

つづく

back  next

日本の近・現代史の問題点TOPへ