第 一 部

第四章 日清戦争に至る道(1)

 聖徳太子以来の中央集権国家を確立した明治政府は外に対しての防衛力の整備、強化とそれを支える国内の殖産に全ての力を注いだ。「富国強兵」は国家戦略を見事に表現したスローガンである。

 その戦略を支える基礎は教育立国の確立であった。学制で義務教育の理念を確立し、全国に二万六〇〇〇もの小学校を設置した事はアジアどころか世界でも初めての快挙であった。
 ヨーロッパで教育の普及が遅れたのは階級社会の教育を残し階級支配配を続けた為である。イギリスでもフランスでも王を頂点とした王侯貴族が支配者として君臨していた。それゆえ支配者の交替は階級対階級の戦いとなる。

 イギリスではピューリタン(清教徒)革命でフランスではブルジョア(市民)革命で王は処刑され政治が変わった。
 ロシアでは二十世紀になってから革命が起こるがやはり王の処刑によって革命が成功した日本では天皇はおろか将軍でさえ殺されることはなかった。

 穏やかであるが実質的な社会改革を成し遂げた明治維新は、世界に誇ることのできる革命である。
 日本には平等で公平な社会が曲がりなりにも実現した。その証拠には日本には上流階級が育たなかった。華・士族は残っていたが中流階級にのみ込まれていき、能力主義によって台頭してきた平民に国の主導権は移っていった。中流と上流の違いは爵位でいえば男爵だけが金の力で買えるものであり、そのほかの爵位は家柄という身分制度で固定されていた。日本の上流階級には一つの社会を作るまでには至らず、鹿鳴館の舞踏会で終わってしまった。

 中国と朝鮮に対しては平等な条約を結ぶことができたが、西欧諸国に対しては依然として不平等な条約のままであった。その理由は日本が法律も整備されていない非文化国家であるということを根拠にしていた。
 井上馨外相は交渉を焦るあまり、裁判官に外国人を登用するという案を出したが国民の怒りをかい失敗した。陸奥宗光に外相が代わり、大日本帝国憲法も発布され条約改正の条件は次第に整ってきた。ちょうどその頃イギリスはロシアとアジア進出で対立を深めていた。
 イギリスは函館の開港を条件に条約改正を提案してきた。反対論が渦巻く中で陸奥外相は決断した。西欧諸国との平等な条約こそ今の日本にとって一番必要なことであり、原則論だけでは問題は解決しないと考えたのだ。

 こうして日英通商航海条約が結ばれ(明治二十七年)近代国家の一員として世界が認めたのであった。陸奥は大久保の血を引く未来を見据える政治家であった。
 こうして世界の国々は条約改正に応じ、日本は「世界の中の日本国」になったのである。

だがこの条約改正で日本が勝ち取ったものは基本的に治外法権の廃止だけであり、関税を含めた本格的な平等条約を結ぶためには、日清・日露の戦争に勝利しなければならなかった。

 明治二十八年ロシアの朝鮮進出をめぐって日本と清国は対立を深めていった。清国としては琉球の帰属問題も不愉快な問題であった。清はフランスにペトナムを奪われ、朝鮮まで日本の影響が及ぶ事に対し危機感を感じており、日本を仮想敵国としてみていた。


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