池口惠觀大僧正講話
(6)

平成21年1月9日


惠觀第一講話(6)

高野山真言宗伝燈大阿闇梨
百万枚護摩行者最福寺法主
医学博士 大僧正
池 口 惠 觀


 初春の候 皆様方にはますますご清栄のこととお慶び申し上げます。また、日頃は私ども最福寺に対しまして、一方ならぬご高配を賜りまして、誠にありがとうございます。衷心より厚く御礼申し上げます。

 さて、アメリカ発の金融危機が世界に波及しつつあります。日本の株式市場も再び一万円の大台を割り込みました。今後、先進各国が対応を誤れば、昭和初期の世界恐慌の再来という最悪事態にならないとも限らない、と言われています。

 バブル崩壊後の長期不況をやっとの思いで乗り越えてきた日本としても、いざなぎ景気を超える長い景気回復過程に終止符が打たれたときだけに、非常に難しい対応を迫られると思います。

 金融危機のきっかけは、アメリカのサブプライムローン問題にあると言われています。私はその背後に、冷戦崩壊後に強まったアメリカン・スタンダードによるグローバリズムがあったと見ています。その流れの中で、実体のないマネー・ゲームが雪だるま式に膨らみ、遂に行き詰まったというのが、実相ではないかと感じています。

 この金融危機がどういう形で収拾されるにしても、ほとぼりがさめた時点で、歯止めの利かないマネー・ゲームに対する反省が起きてくるはずです。もっと言えば、人間がカネやモノに翻弄されるいまの世界のあり方に、疑問を呈する意見が湧き上がってくるはずです。それは地球環境問題への気づきと同じで、やがて世界的な潮流となるのではないかと見ています。
 そのとき、日本の企業経営者は、この国の企業社会の底流に流れている経営道の根っこを再認識されるに違いないと思います。日本の経営道の根っことは、仏教、儒教、神道、武士道などを背景とする、日本の伝統的な精神や美徳を採り入れた企業家魂です。

 元来、日本人の特質の一つに、お金や名誉に執着しないことが挙げられます。鎌倉時代に書かれた吉田兼好の『徒然草』に次の一節があります。

「名利に使われて、閑かなる暇なく、一生苦しむるこそ、愚かなれ。……大きなる車、肥えたる馬、金玉(きんぎよく)の飾りも、心あらん人は、うたて、愚かなりとぞ見るべき。金(こがね)は山に棄て、玉は淵に投ぐべし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり」

 つまり、兼好法師は「名声や利益に気を取られて、静かなときを持つこともなく、一生あくせくするのは愚かなことだ。大きな馬車や立派な馬、金色に輝く宝石も、心ある人には必要ないものだ。黄金は山に棄て、宝石は川に投げよ。利益に惑わされるのは、愚かな人がやることである」と言っているのです。これは経営者魂を言ったものではなく、人間のあるべき姿を言ったものですが、この思想は日本の経営道に色濃く反映されています。

 江戸時代以降に説かれるようになった経営道を、二、三紹介しておきます。

 江戸時代初期に鈴木正三(しょうさん)という禅宗の僧がいます。正三は徳川家康直参の三河武士ですが、四十歳を過ぎてから出家し、全国を修行して歩いた人です。

 その鈴木正三が士農工商それぞれの立場の人たちに向けて、自分の職分を精一杯尽くすことが仏行であることを説いた『万民徳用(ばんみんとくよう)』という本があります。正三はその中で、すべての職業には「仏性」があり、世の中に有用でない職業はないとしながら、「同じ人間であるのに、商人に生まれたばかりに、常に利益を追いかける気持ちを持ち続けなければならず、菩薩に進むことができないのは、無念のいたりです。どうすればいいのでしょう」と問いかける商人に向かって、こう諭しています。

「商人は利益を出すような商売をしなければならないが、それには秘訣がある。それは正直をモットーとした商売に徹することだ。そうすれば仏陀神明のご加護があり、取引相手もお客もその商人との取引を喜び、商売は繁盛する。…そういう正直な商いをやっておれば、その商人は福徳が充満する人となり、行住坐臥すなわち日常の生活がそのまま禅定となって、自然に菩提心が成就する」

 鈴木正三は、仏の道に関連づけて、正直な商売を説いたわけです。

 鈴木正三とほぼ同時代に、住友家の「家祖」と呼ばれる住友政友という人がいます。政友も武士の家に生まれながら、涅槃(ねはん)宗の僧侶として人生を送っています。

 政友が子孫に遺した訓戒があります。政友はその中で、仏や神を信心する心の大切さに触れながら、「謀計とは謀りごとをめぐらし、人の心をかすめ、筋なき金銀を取ること也。それは目の前にては利潤、徳と思えども、終には神明の御罰に当たるなり。正直は一旦の依怙にあらずといえども、終には日月の憐れみを被るなり」と、正直な商売の重要性を説いています。

 この政友の教えは、明治二十四年に制定された「住友家法」に受け継がれており、「住友家法」冒頭の第一条、第二条には、次のように書かれています。

第一条、我が営業は、信用を重んじ、確実を旨とし、以て一家の鞏固、隆盛を期す。

第二条、我が営業は、時勢の変遷、理財の得失を計り、弛張、興廃することあるべしと雖も、苟も浮利に趨り、軽進すべからず。


 要するに、住友正友は、信用・確実が商売を繁栄させるのであり、決して浮ついた利益を追ってはならない、ということを説いているのです。

 江戸時代中期の学者に石田梅岩(ばいがん)という人がいます。今の京都府亀山市の農家に生まれ、京都の商家に奉公しながら、常に書物を懐にし、暇あるごとに書物を読みふけり、独学で仏教・神道・儒教を融合した心を修養する学問、石門心学を開いた人です。

 石門心学の最大の特徴は、仏教・神道・儒教を取り入れながら、当時、士農工商という身分制度で卑しめられていた商人を、市井の臣と位置づけ、社会的な役割としては商人も武士に劣らないと主張するとともに、商人に反省を求め、商道徳の確立を説いた点にあります。

 石田梅岩の『都鄙(とひ)問答』の冒頭部分に、「商人の道を問うの段」という項があります。ある商人が「売買を日々の仕事としているが、どういう売買が商人の道にかなうのか、よくわからない。いかなる理念をもって商売をしていったらいいのか」と問うと、石田梅岩は次のように答えています。

「商人はもともと、余っているものを不足しているものに替えるところに成り立つ仕事である。そして、商人は細かく勘定をすることによって、生活をしているのであるから、一銭といえども軽んじてはならない。その一銭を積み重ねて富を成すのは、商人の道である。しかし、その富のもとは天下の人々である。 人々の心も我々と同じく、一銭を惜しむ心を持っている。だからしっかりとした良い商品を売れば、買う人もお金を使うことを惜しいと思わなくなる。そうすれば、天下にお金や物が流通して、万民の心が安まる。それは天地が常に変化して万物を養っていることと同じである。それによって大金持ちになったとしても、それは決して欲心から出たものではない。要するに、商人が欲心をなくして一銭を大事にすれば、天下の倹約にもかない、天命にも合うことだから、福を得るのは当然のことだ。商人が福を得ることが万民の心を安んずることにつながるならば、商人が仕事に励むことは、常に天下太平を祈ることと同じである。 その上に、法を守り、身を慎むことが大切だ。ただ、商人といえども、聖人の道を知らなくては、同じお金でも不義のお金を儲けて、子孫に災いをもたらす。」

 物やお金の流れをきちんと把握しながら、商人が富を成すことを認めた上で、商人が正しい商売を行うことが天命に合うことであり、天下太平につながるのだと、石田梅岩は説いたのです。そう説かれた商人たちは、仏教や儒教の背後にある大聖人の道を一生懸命学び、いよいよ正直を旨とした堅実経営を実践していったのです。

 ここに例に挙げた経営道は、金融危機の背景となったようなマネー・ゲームとは無縁の時代において説かれたものです。しかし、それは日本の経営道の根っこであり、この根っこを大切にしていけば、日本の経済社会という大木は決して根腐れすることなく、年々歳々大きく葉を繁らせ、立派な花実を付けるのです。

 昨今のような激動の時代には、物事の基本を堅守することが大事です。経済の基本は「経世済民」、すなわち「世を治め、民を救う」ことであり、経営道の基本は正直を旨とした堅実経営により、経世済民に資することです。

 日本の企業経営者の皆さんがその基本を再確認されながら、この難局を克服され、その先にこの国の伝統的な経営道を踏まえた、人を大事にする「人本主義経営」を再構築されることを、仏教者の一人として心より期待します。

 弘法大師空海は「すべての生命は仏の子であり、その身のまま仏になることができる」と、「即身成仏」を説いています。企業経営者も仏なら、企業で働く人々も仏であり、企業そのものも仏なのです。

 企業が浮利を追わず、経営者も従業員も、密教で言う「身口意(しんくい)」すなわち身体と言葉と心を駆使して、日々の仕事に邁進すれば、そこに発する仏の光は必ずや神仏に通じ、仏の子の集団である社会に通じ、前途は切りひらかれるはずです。

私は、日本の経済社会の底流に流れる伝統的な経営道を信じ、日本の経営者の皆さんの内なる仏の光を信じ、日本がこの難局を乗りきることができるよう、従 来にも増して日々の護摩行に励んでまいる所存です。

合掌

つづく
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