池口惠觀大僧正講話
(5)

平成20年10月18日


惠觀第一講話(5)

高野山真言宗伝燈大阿闇梨
百万枚護摩行者最福寺法主
医学博士 大僧正
池 口 惠 觀


 暦の上では秋分を過ぎましたが、気温の高い日が続いています。北京オリンピックや夏の高校野球などでは、スポーツの分野で熱戦が繰り広げられましたが、スポーツの祭典をテレビ観戦していますと、一見、暑いけれども平和に感じられました。しかし、世界は決して平和ではありません。北京オリンピックは、戒厳令下のようなものものしい警備のもとで行われましたし、新彊ウイグル自治区では相次ぐテロ事件が発生し、オリンピックの応援に訪れていたアメリカ人観光客が、殺害される事件も起きました。

 オリンピック直前には、毒入りギョーザ事件に関して、中国国内で毒が混入されたことが、洞爺湖サミットの前に、中国政府から日本政府に伝えられていたことが明らかにされました。マスコミや野党から、日本政府がそのことを公表しなかったことが問題視されましたが、中国国内に毒を混入した人間がいたとすれば、その人間がいかなる理由でそんなことを行ったのかに注目せざるを得ません。その理由が、単なる企業内の怨恨であるとしたら、それはありがちな犯罪です。が、それが政府に対するテロ行為的な側面を持っていたとすれば、チベット問題、新彊ウイグル自治区問題などとともに、中国を揺るがす問題に発展するのではと思います。

 また、オリンピックの最中に、ロシアとグルジアが戦争状態になったのも、驚きでした。ソ連崩壊後、グルジアは、親ロシア派勢力と親欧米派勢力が対立する構図が強まっていたということです。

 ロシアが絡む戦闘と言えば、チェチェンがよく知られており、チェチェン人によるテロ行為には、プーチン政権も手を焼いていました。グルジアとチェチェンでは、対立の構図が異なるようですが、大国ロシアがイスラム社会との境界線近くで、難問をかかえていることが明らかになったことは、オリンピック後の中国とともに気になるところです。

 さて、日本に目を移しますと、福田総理は内閣改造後すでに九月一日時点で辞任を表明しておられますが、話を戻してお話ししましょう。

 八月初旬、福田改造内閣が発足し、洞爺湖サミットを無事に終えて、政権に浮揚力をつけるための改造だったようですが、マスコミ各社の世論調査では、各社まちまちであったにせよ、内閣支持率は軒並みアップしました。支持率が二十パーセント前後まで落ち込んだ福田内閣としては、支持率低下に歯止めをかけることができ、改造の初期の目的は達せられたと言っていいと思います。上がった理由はいくつかありますが、曲がりなりにも挙党一致内閣を造ったという点が大きかったと思います。今回、党人事を含めますと、麻生太郎幹事長、古賀誠政治対策委員長、高村正彦外務大臣、伊吹文明財務大臣、二階堂俊博経済産業大臣、谷垣禎一国土交通大臣など、派閥の領袖が重要ポストに就いており、新鮮味に欠けるという批判はありますが、自民党支持者にとっては安定感のある布陣に見えるのは確かです。いま自民党が置かれている状況は、権力闘争をやっている場合ではなく、国家・国民のためにしっかりとした政治運営が求められています。そういう状況下で、国民にもその意気込みはある程度通じたと思うのです。もう一つ、国民とりわけ自民党支持者に福田総理のやる気を感じさせたのは、三年前の「郵政選挙」で、郵政民営化に反対して離党を余儀なくされ、その後、安倍総裁の下で復党を認められた議員を、党や内閣の要職に起用した点です。

 人事では、構造改革を進めて経済を活性化し、増収によって財政を健全化するという、小泉路線を志向する「上げ潮派」の政治家は排除され、経済財政の運営面では、与謝野馨経済財政担当大臣、伊吹財務大臣を中心とする、消費税増税によって財政を健全化するという「増税派」が主導権を握ったと見られてましたが、過去に消費税を導入した竹下内閣も、消費税増税を行った橋本内閣も、国民の猛反発をくらって、早期に退陣に追い込まれました。福田総理がその経緯を百も承知で「増税路線」にシフトしたとすれば、そこには「一千万人といえども我ゆかん」という覚悟があり、その覚悟はポスト福田も睨んだものがあったはずです。その流れに、小泉元総理や「上げ潮派」の議員たちが、どう対応するのか、対応次第では、総選挙に向けて政界再編がらみの動きが出てこなかったともかぎりません。

 しかし、日本経済の減速がはっきりし、日本を取り巻く内外の環境が一段と厳しくなっている現在、日本の政治が混乱するような事態は極力さけるべきです。改造内閣で曲がりなりにも挙党一致の態勢をつくったときに、自民党が「上げ潮」か「増税」かで対立している場合でなく、身口意すなわち身体と言葉と心を駆使して、国家・国民のために汗を流し、国民の信を得ることが先決ということです。

 現在、次の自民党総裁の行方も気になるところですが、いずれにしても、今の日本の政治状況は、ねじれ国会という異常事態のもとで、さまざまな思惑が交錯し、どこか幕末の状況に似ているような感じがします。こういうご時世に必要な人材といえば、大所高所から物事を見ることができる、肝の座った調整役が必要であります。

 NHKの大河ドラマ「篤姫」では、桜田門外の変で井伊大老が暗殺されました。いよいよ天皇家と徳川将軍家を一体化する公武合体策で、皇女和宮が十四代将軍・家茂に嫁ぎ、大奥に入ってくる局面に突入しますが、天璋院篤姫と和宮が初めて対立しながら、最後は徳川家を守るために協力するようになる中で、幕府側で大きな働きをしたのが、ご承知のように勝海舟であります。

 勝海舟と天璋院は、お互いに深い信頼関係で結ばれていたと言われています。江戸城が開城される直前、西郷隆盛に率いられる官軍側から、薩摩に天璋院を戻すよう要請がありますが、天璋院は拒否し、自害も辞さないと主張します。

 そこで大奥に説得に出向いたのが勝海舟であったと言われています。ドラマでは、天璋院と勝海舟は以前から顔見知りであったように描かれていますが、実はそのときが初対面であったという説もあります。

 勝海舟は、存亡の危機にある徳川家の内情や、江戸開城に至る経緯を、縷縷説明しますが、天璋院は納得せず、自害を主張します、そこで勝海舟は、「天璋院様がここで自害なさるなら、私もここで腹を切ります。そうなると心中と見られますが、それでもよろしいか」と脅すなど、三日間にわたって説得し、遂に江戸城を退く決意をしたということでありますが、その後も江戸に残り、徳川家の人間としての晩年を送っています。

 ちなみに天璋院篤姫は明治十六年、四十六歳で亡くなっていますが、勝海舟は明治三十二年、七十七歳まで生きています。

 勝海舟はもともと幕府方の人間ですが、討幕派の人間とも交流がありました。それは勝海舟の人間的な度量の大きさ、識見の深さによるものです。例えば、勝海舟と坂本龍馬の初対面のときの有名な話があります。

 勝海舟と初対面したときの龍馬は、まだ攘夷論者でした。ことによると勝海舟を斬る覚悟だったと言われています。しかし、すでに咸臨丸船長としてアメリカを視察していた勝海舟は、「攘夷に反対するのではない。外国の理不尽な圧迫に屈するぐらいなら、断固攘夷をやるべきだ。しかし、世界の現実を知ることなくして、真の攘夷はできない。とにかく海軍力の育成強化が先決だ」と、諄々と龍馬に説いたのであります。龍馬はそのとき、勝海舟が「日本第一の人物」であると直感し、その場で弟子入りしています。お互いに第一級の人間同士が、初対面で肝胆相照らす仲になったのであります。

 勝海舟とともに江戸無血開城の立役者となった、西郷隆盛の『西郷南州遺訓』の中に、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るのもなり。この始末に困る人ならでは、艱難をともにして国家の大業は成しえられぬなり」という言葉があります。つまり西郷は、「命も名誉も金も捨てて政治に奔走する人でないと、国家の大仕事はできない」と言っているのであります。

 この有名な言葉には、具体的なモデルが存在しています。そのモデルとなった人物とは、山岡鉄舟(本名・山岡鉄太郎)という人です。

 山岡鉄舟は十五代将軍徳川慶喜の身辺を護衛する精鋭隊の隊長になるとともに、大目付を兼務し、幕府方のリーダーの一人でした。西郷よりいち早く、山岡鉄舟の力量を見抜いていたのが、幕府方の最高指導者だった勝海舟でした。

 明治維新の年の三月、官軍を率いた西郷は静岡まで進軍していました。官軍がそのまま江戸に進軍し、総攻撃を開始したら、江戸が火の海になることは明らかです。そこで、勝海舟は幕府側の恭順の意を示した西郷宛の手紙を山岡鉄舟に持たせて、 西郷のもとに向かわせたのです。

 当時、官軍と幕府軍は戦争状態にあり、江戸から静岡までの東海道周辺は、ほぼ官軍の制圧下にありました。その中で密命を帯びて、幕臣が単身、静岡に向かうというのは、敵中を横断するようなものでよほど肝が据わっていないとできない、命懸けの仕事です。勝海舟は山岡鉄舟と初対面の日の日記に「旗本山岡鉄太郎に逢う。一見その人となりに感ず」と書いています。自分が人物と見込んだ山岡鉄舟なら命懸けの大役を果たすことができる、と大役を託したわけです。

 勝海舟が偉かったのは、山岡鉄舟に薩摩藩士の益満休之助を同行させたことです。益満は西郷の部下で、西郷の命令を受けて、江戸で倒幕運動の画策をしていた男です。しかし、幕府が薩摩藩の三田藩邸を攻撃した際、捕らえられ、身柄を拘束されていました。勝海舟はその益満の身柄をもらい受け、山岡鉄舟の静岡行きに同行させたのです。二人は道中、官軍の陣営を通過するたびに、益満が「おいは薩摩藩士でごわす」と言って、無事、静岡の西郷のもとに辿り着いたのです。勝海舟は智謀の人でありました。

 西郷の部下の益満が同行していたとは言え、単身で敵の総大将の西郷のもとに乗り込んだ山岡鉄舟は、勝海舟になり代わって、徳川家の恭順の意を伝え、事実上、江戸城総攻撃の中止と江戸の無血開城を取り決めました。一般的に、明治維新の際、江戸が火の海にならずに済んだのは、西郷と勝海舟のおかげだろうと言われていますが、山岡鉄舟という人物の存在も忘れてはならないと思います。

 西郷は、静岡まで単身乗り込んできた山岡鉄舟の胆力と、肝の据わった至誠の言動に感心し、あとで勝海舟に、「あんな命も金も名誉もいらぬ人間は始末の困る。しかし、始末に困る人でなければ、天下の大事を語ることはできない」と、しみじみと述懐したのであります。

 余談になりますが、山岡鉄舟は幕臣の家に生まれ、数えで十五歳になった折、つまり元服の折に、自らの戒めの言葉として書き記した『修身二十則』を残しています。『修身二十則』の本文は、「可からず候」とか「可く候」といった箇条書きの候文になっていますが、現代用語で紹介します。

一、嘘をついてはならない。
二、君主の恩を忘れてはならない。
三、父母の恩を忘れてはならない。
四、先生の恩を忘れてはならない。
五、人々の恩を忘れてはならない。
六、神仏、ならびに目上の人を粗末にしてはならない。
七、幼い者をあなどってはならない。
八、自分にとって快くないことは、他の人にもそれを求めてはならない。
九、腹を立てることは、人の道ではない。
十、何ごとについても、人の不幸を喜ぶようなことをしてはならない。
十一、自分の力の及ぶ限り、善いことに力を尽くすべきである。
十二、他人のことを顧みないで、自分の都合の良いことばかりしてはならない。
十二、物を食べるたびに、それを作った人の苦労を思いやるべきである。また、草や木や土や石も粗末にしてはならない。
十四、ことさら着物を着飾ったり、うわべをつくろったりする者は、心に濁りがあるものだということを心得ておくべきだ。
十五、礼儀を大切にして、それを乱してはならない。
十六、どんなときでも、どんな人に接するときでも、お客様に接するように心掛けるべきである。
十七、自分の知らないことは、どんなことについても、よく習うべきである。
十八、自分の名誉や利益だけのために、学問や技芸を習ってはならない。
十九、人にはすべて、得意、不得意がある。したがって、不得意のことだけをもってその人を非難したり、笑ったりしてはならない。
二十、自分の善行を誇らしげに人に自慢してはならない。何ごとも自分の心に恥じないようにつとめるべきである。



 一見、当たり前の戒めのように感じられますが、江戸時代の武士の子弟の人間的なレベルの高さを感じざるを得ません。山岡鉄舟は後に明治天皇の侍従長になり、心底お仕えしていますが、この『修身二十則』は明治天皇が出された「教育勅語」に通底するような気がします。

 いずれにしても、勝海舟は幕府側から、身口意をフル回転させて日本の危機回避に当たり、彼の肝の据わった調整能力が、周囲の人を動かし、明治の新国家建設の一翼を担うことになったのです。

 国難状況にある二十一世紀の日本を救う、平成の勝海舟の登場を期待したいものです。    

合掌

つづく
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