西南の役から130年、維新の英傑を訪ねて
西日本地区・鹿児島県支部と更なる絆を深めた鹿児島訪問




行動隊長・山梨県山憂連合代表
大久保 叡

 昨年(平成19年)11月15日、維新の英傑、西郷隆盛が生誕180年を迎えたことを機に、私たちは鹿児島県鹿児島市を訪問しました。この度の訪問は、西南の役で没した西郷隆盛と薩摩軍の足跡を、日本青年社西日本地区九州管区の鹿児島県支部の同志とも尋ねることによって、私たちと鹿児島県支部の同志が同じ歴史観を共有することで、互いに意思の疎通を深め、更なる友好の絆をはかることにありました。また、当日は、私ども日本青年社をサポートしてくださる日本の象徴的指導者、高野山真言宗伝燈大阿闇梨、百万枚護摩行者最福寺法主 池口惠觀大僧正の御誕生日を祝う会へ出席できましたことも、鹿児島県を知る上で大変有意義な旅となりました。 


南国鹿児島へ…

 平成19年11月15日午前、松尾和哉会長、サイパン忠魂碑顕彰会の大槻健治会長を始め、私ども一行は羽田空港を出発、11時ごろ鹿児島空港に到着。 空港には既に鹿児島県支部最高顧問の神宮司礼樹氏、濱村拓治支部長を始め同志役員、また長崎県から蜂谷公一九州管区管区長、佐賀県から池田香佐賀県支部長等が待機していました。お互いに挨拶を交わしてから話を聞くと、同じ九州でも長崎から鹿児島まで車で6時間かかるとのことでした。また東京では朝晩めっきりと冷え込むようになりましたが、さすがに鹿児島県は南国の地、汗ばむほどの暑さでした。


特攻平和会館


 今回の鹿児島訪問は、一泊二日の日程なので、鹿児島県の歴史にどこまで触れることができるかが少し心配でしたが、鹿児島県支部の同志の案内で、一路、知覧町に向かいました。

 知覧町では、「特攻平和会館」に向かう途中で、遠足らしい小学生の一団とすれ違いましたが、私は、この子供たちは、鹿児島の学校では先生から何を教わり、平和会館で何を学び何を感じて帰るのかな、と考えながら会館に入りました。会館内には、戦時中の戦闘機、重火器、備品等など、そして特攻隊員の写真、日記、遺書、遺詠、家族らに宛てた手紙、女子勤労奉仕隊員の記録など多くの遺品が展示されており、見学者の中には、展示物の前ですすり泣く年配の方々もいました。私も知人から「知覧平和会館に行くと涙が出てくるよ」と聞いていましたが、展示されている写真、遺品、遺詠、手紙などを目の当たりにし、自分の短い生涯に別れを告げることが分かっているにも関わらず、上官から日の丸の鉢巻を受け取った時の写真に映っている特攻隊員の表情を見て、この若者たちは、きっと兄弟のこと、家族のこと、国家のことを按じながら、何とかして日本を守ろうとした熱い思いで基地を飛び立ったのではないのかと思えてならず、この英霊に「すみません。今に生きる私たちが、もっともっと努力して、貴方達が守ろうとした本来の日本にしなければなりません」との思いに駆られました。そして、何もできない自分を反省する思いで胸が熱くなりました。

 平和会館の他に、三角兵舎を見学してから特攻平和観音堂へと移動する途中で、招魂塚という「西南戦争」で没した御霊の碑の前で礼拝してから、平和観音堂にて心から感謝の誠を捧げ、特攻銅像「いにしえ」の前で全員で記念撮影を致しました。


豪壮な庭園と武家屋敷群を見学

 昼食後、知覧麓の武家屋敷群を見学しました。この武家屋敷群は、江戸幕府の一国一城の方針に反して薩摩藩では鶴丸城を内城として、領内に130の外城を造り防衛の役割りを果たしていたようです。 知覧式武家屋敷群は、外城亀甲城の武家集落「麓」、農民集落「在」、商人の集まる「野町」、漁村「浦・浜」であり、現在も多くの住民が居住しており、各家々は、私たちが沖縄県尖閣諸島魚釣島灯台の保守点検時に出港した八重山諸島・石垣島でよく目にした懐かしい石垣が積まれており、緑豊かな風景で庭園も有名な寺院に見られるような立派な造りであり、何か想像心を掻き立てられる思いと、この麓に暮らした人たちの心の豊かさを感じざるを得ませんでした。

 また麓の中央を通る本馬通り亀甲城跡下の、森重堅氏宅脇にひっそりと立つ豊玉姫神社跡の石碑を見て、何か神話の時代から続くこの地方の歴史の深さの一部を探求できた思いがしました。(この麓は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、武家屋敷内の庭園は国の名勝に指定されている)。


池口惠觀大僧正の御誕生日の会に…

 夜6時30分から、日本の象徴的指導者・高野山真言宗伝燈大阿闇梨 最福寺法主 池口惠觀大僧正の御誕生祝いと年忘れの会が開催される。私たちも池口惠觀大僧正の御誕生日の会にご招待を受けていることから、空港に着いた時に最福寺を表敬訪問しました。最福寺は国道沿いの広大な敷地の中にあり、本堂、三重塔、鐘突き堂、そして大きな大仏殿がありました。その中には、高さ18.5メートルの木造大弁財天をはじめ多くの仏像が御安置され、本堂には弘法大師座像が御安置されており、私はそこにいるだけで自然と心が洗われるような思いで手を合わせました。そのようなことから、これから始まるお祝いの会に出席するために、身支度を整えて式典会場に向かうと会場はすでに満席であり、式典開始から、池口惠觀大僧正が取り組まれている国内外での活動や、ロシア駐日大使の御祝いのメッセージ等の映像鑑賞に続いて、池口惠觀大僧正の導きで般若心経の読経と講話が行われ、最福寺檀家総代の挨拶に続いて、鹿児島県知事の祝辞が述べられ、高野山総本山代表による乾杯の後、東京総代である鳩山邦夫法務大臣代理を始め、多くのご高名な先生方の祝辞が述べられました。


※池口惠觀大僧正ご挨拶と講話をシリーズとしてこちらに掲載致しました。→こちら


  翌、11月26日、今日は「西南の役」で没した、維新の英傑・西郷隆盛の足跡を訪ねる旅に出発です。

 最初に、鹿児島市中央公民館近くに建立されている「西郷隆盛」銅像を見学しました。私は銅像を観て、東京上野にある西郷南州像は、着流し姿に犬を連れているので何となく親しみを感じますが、鹿児島の南州像は軍服姿ですから軍人らしさを感じる銅像でしたが、鹿児島市中央公民館が重みのある迫力感を感じる長方形の建物であるのに、角がなく丸みを帯びていたことから、鹿児島の銅像と東京の銅像に何か相通ずるものを感じるものを覚えました。

 続いて南州墓地、南州神社、南州顕彰館を拝観しましたが、墓地入口では、地元の方とともに墓前に進むと、その方が、負傷した西郷隆盛を介錯して四十九歳の生涯を終えた別府晋介の屍は、大山巌や鹿児島出身将兵、そして鹿児島県令・岩村通俊らの手により、南州墓地向いの浄光寺に仮埋葬され、他の寺に仮埋葬されていた者たちの屍も後に、現在の南州神社墓地に改葬されている。

 埋葬されている戦死者は2千23人であり、750基の墓碑がある。この墓碑は埋葬者の出身地ごとに、その出身地の人たちが建立したが、その殆どは錦江湾に向いているが二基だけは福岡出身者であるため、福岡の方向を向いており、戦死者は若者が多く、最年少が14歳6ヶ月であり、5人兄弟の墓もある。入口の大きな石燈篭には、西郷隆盛により江戸市民の血を流さずに無血開城したことへの感謝から東京市長が建立したことなどと、こと細かに案内説明をしてくださった。

 この説明を聞いて私は、西南戦争を戦った西郷隆盛を始めとする兵士全員が天皇陛下に刃を向けたのではなく、維新の動乱期に悪政に抵抗して止むに止まれず戦った事を官軍も薩軍兵の出身者達も誰もが承知していたことから、手厚く葬られたのだと感じました。また松尾会長から、南州神社には山梨の人も祀られていると聞かされたとき、私は清水次郎長の敵役として登場する山梨の侠客、黒駒の勝蔵を思い出しました。勝蔵は勤皇侠客であり西郷隆盛を大先生と呼んで何度も会っており、官軍の兵隊長として戊辰戦争にも参戦しています。西南戦争時には他界していましたが、ここに埋葬されている森田政一という方が、もしかすると勝蔵の関係者なのかなと想像すると同時に、西南戦争当時の熊本県令・富岡敬明が、以前には山梨県令の補佐役として日野春(現在の北杜市長坂町日野春)の開拓に尽力された方であることから、山梨に関係する人物が西郷隆盛の味方になったり、敵になったりして遠いこの地で戦っていたんだなとの深い思いを致しました。その後、隣接する西郷南州顕彰館を見学し、最後に鹿児島県の
原始時代からの歴史・文化・芸術のわかる黎明館を見学しました。

 私は、この度の鹿児島訪問で学んだこと全てが、西郷隆盛が言った「人間の運命は、人間自身がじたばたしたって、どうにもならない所で決められる。それは天が決めるもの、与えるものであるから、人間は、むしろ天を敬い、天の声を聞き、その声に従って、素直に生きなければならない。また精一杯人を尊重し、真心を込めて人を愛し、大切にする。人を愛することは、天の心にも叶うことになる。」のごとく「敬天愛人」に通ずる気分になりました。

 この度の一泊二日の旅は、私たちの人生に大いなる知識を与えてくれました。