カンチャナブリの半世紀

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【3】
 昭和十九年七月、インパール作戦に破れたビルマの日本軍十万は、なだれをうっての総退却となった。時は雨期で泥海にひざを屈する惨憺たる退却行であった。

 進軍のために建設された泰緬鉄道は敗残の日本軍将兵を後送する鉄道となった。元日本人会会長の大峡一男氏は当地で応召され英空軍の銃爆撃下を連日カンチャナブリで日本軍将兵の収容にあたられた。このような状態のもとで終戦をむかえたのである。

 敗戦と同時に連合軍による戦犯追及がはじめられた。タイ方面軍司令部内で「国際将軍」と皮肉られていた浜田平中将は捕虜取扱いの一切の責任は我にありとしてワイアレス路の公邸に於て自決された。「碁にまけてながむる狭庭、花もなく」は敗戦の荒寥(こうりょう)たる心境をたくした中将の辞世の句であった。

 英占領軍は雇傭を解除されるクーリーに「お前をなぐった日本人の名前を言ったら十バーツやる」などとの勧奨の手段さえとった。当時は十バーツで米が三俵買えたそうで、クーリーは勿論、善悪を問わず知る限りの日本軍将兵の名前を並べたてた。鉄道司令官安達少将以下、軍属高官、鉄道官補、下士官兵など四十名が第一次容疑者として連行され、バンコク郊外のバンカン刑務所に収容された。ここでの食事は朝はビスケット二枚、午後は一椀のおかゆで重労働が課せられ、罪名は旧捕虜が一方的にきめるものであった。「正義とはどんなものか知らせてやる」と起訴のきまった日本軍将兵に暴虐なリンチを行うものもあり、自殺者が続々と出るほどで、劣等人種と確信する黄色人種に労働を強制された彼らの憎しみは根深いものがあった。

 シンガポールの南方六十キロに在るレンバン島に収容された部隊は一枚のチョコレートで一日の露命をつながされ、餓死寸前のところを帰還船に救出された。この島は第一次大戦後、英軍がドイツ俘虜を収容し、全員餓死させたことで
名高いところである。

 前述のように藤井中尉を軍法会議にかけて免官処分にした俘虜収容所長、中村鎮雄大佐は的はずれの「病人俘虜射殺事件」で収監された。大佐は温情あふるる応召の老将校で俘虜たちからは慕われており、彼らの間に助令嘆願の声がおこって英軍司令部の釈放状がチャンギー刑務所にとどけられた時、すでにおそく処刑は終わった後であった。他にもこのような例数は多い。

 こうした軍事裁判の結果、泰緬鉄道関係だけで起訴された者一○一名(死刑七十二名、終身刑十六名、他は有期刑)で、捕虜の保護のために作業隊と確執の絶えなかった収容所関係から多くの戦犯を出したことも皮肉な結果であった。

 泰緬鉄道開通後は帰還者、転属者をふくめて、作業隊の人事が大巾に入替えられ、連合軍は戦犯追及に手がかりを失ったためである。

 結局、戦争によって失われたものに対する、やり場のない怒りが敗戦国側の人間にぶつけられ、日本人なら誰でもいいという国民的な報復となってあらわれたのであろう。

 ストレート・タイムス(マレー英字紙)やロンドン・タイムスでさえ当時のゆきすぎを認めて「充分な調査もせずに、大量の日本人戦犯を絞首台に送ったのは正しくない」と論評している。時事通信、今村バンコク支局長が「死の鉄道」の著者ジョン・コーストに先頃、当地でインタビューした折も彼は公正な態度で上記の点を批判していた。終戦直後の狂気じみた混乱の中で、裁判らしい裁判もされず、一言の釈明もうけつけられず、無実の罪に処刑された人々も多かった事と思われる。

 英占領軍は日本軍将兵の墓標をすべてとりのぞき、二百十ヶ所に点々と散在していた捕虜の墓の改葬を武装解除された日本軍に命じた。現在の外人墓地は、このとき日本軍が整地し、一万二千体の遺骨を埋葬したもので、墓碑は八千七百三十二墓、差数は未確認である。日本将兵の墓標はとりはらわれたまま、今はそのあとすらとどめていない。
 

 俘虜の碑にまつわる歴史は以上をもって終わらせていただくが、現在この鉄道はタイの国有鉄道として、バンコクからメクロン橋東北一六〇キロのナムトク迄つながり、現在はさらにその先に向けて建設工事がすすめられている。この大自然に向かって、二十万の人間が死闘をつくしてから、すでに五十六年の月日がすぎさっている。

 今、河畔の碑の前にたてば、クワイ川のせせらぎが耳にこだまし、南国の空はあくまでまぶしく青い。その下を突こつたる山々がはるかビルマ(ミャンマ ー)国境へとつらなっている。ここで困難な鉄道工事が行われ、多数の捕虜、クーリーが使役され、幾万もの人々が病にたおれていったこと、終戦と同時に戦犯追及という形で徹底的に報復が行われたなどの血なまぐさい出来事は、なんのおもかげもとどめていない。

 ただ、ここで一部のジャーナリズムの掲載した捕虜虐待記事や「日本軍の恥部であった」とする少数の関係者に対して、次のことを付け加えたいと思う。

 捕虜に労働を課する立場にあったのは鉄道第九連隊と鉄道第五連隊であり、捕虜の管理にあたる収容所側とは軍隊特有の割拠主義もあって、いざこざがあったのは事実である。作業隊が収容所の意見通り捕虜をあまやかしていれば、南方クーリーの非能率さから、とてもあの難工事は出来なかっただろう。武力を持たない僅少の作業隊が圧倒的多数の捕虜にきぜんたる態度で接していなければ、各地に反乱がおこり討伐が行われて、もっと悲惨な事態がおこっていただろう。鉄道建設という命令にがんじがらめにしばられた日本軍将兵の課する労働がきびしいものであったことは想像にかたくない。労働に課するものと課されるものとは立場の相違から、それが捕虜にとってはいっそうきびしいものに受け取られた事実であろう。熱帯の高温と強烈な太陽が労働をいやが上にもくるしいものにした。加えて、食物も薬品も徹底的に不足していた。当時の日本人と西欧
人との間における生活程度の差から、それが虐待とうつったのも無理からぬことに思われる。そういう状況の中でコレラの発生以後は収拾のつかない混乱状態におちこんでいったのだろう。

 今はせみしぐれにつつまれる等この静かな山峡の地で、幾万の人々が死んでいったこと、それが日本の戦争目的を遂行するためであったことは、決して消すことの出来ない事実である。

 何故、無理を承知でこの地に鉄道を建設したか、侵略戦争か防禦戦争かの批判は、かつての統師主能がうけなければならないものである。鉄道建設の目的をになってこの地に送られた作業の人々に、あらゆる困難を排してその目的を遂行する以外、出来ることがあっただろうか。

 それと同時に戦争が終わり、勝利者が敗者に報復する事も人間ののがれがたい、悲しい業の一つであろう。事実、洋の東西を問わず戦いのしめくくりとして報復を繰り返してきたことは歴史が証明している。けれども、悪夢のような戦争から五十六年を経て、年月は新しい歴史にむかって流れている以上、かつての出来事をあれやこれやの想像の衣をかぶせて、ゆすぶり起こす必要はないのではないだろうか。静かに、ここの胸のうちで土に帰した七万の霊に祈りをささげることが、我々に出来る最良の方法ではないだろうか。


【平和祈念公園建立について】

 「平和祈念公園」大祭実行委員会は、前述の歴史にかんがみ、平成七年に日本が終戦五十周年を迎えたことから、カンチャナブリ・ツンラジャーの地に、日本軍将兵の英霊に感謝の誠をささげ、民族と国籍を越えた世界全ての戦没将兵に慰霊をささげるとともに世界未来の恒久平和を願う「平和祈念公園」を建立、毎年春の小祭と秋の大祭には、ツンラジャー寺院のロング・ポー・ラムヤイ大僧正、タイ王国陸軍第一師団第九野戦部隊の将校、県知事、市長、経済界からの代表が一堂に会して式典を執り行なっている。

  建立五周年の平成十二年には、日・タイの長い歴史の中ではじめてである、日・タイ合弁による財団法人「二十一世紀・文化教育財団」を取得、同十一月の大祭には、大東亜戦争参戦七カ国の代表が出席する中で式典を執り行なった。またその様子は毎回タイ国の テレビ局、チャンネル9によって全国に報道されている。

 公園内には、世界人類の恒久平和を願いアジア和平日本委員会代表に代る次の碑文が刻みこまれている


いまいちどたちどまり 平和の尊さをみつめよう
 ささやかな幸せも このよき繁栄も
平和の光が消えたなら すべてが失われる
 私たちの手にあるこの輝きを 明日の世代に責任をもって伝えよう
一九九五年を戦後五十年の節目として 二度と戦争を繰り
返さないことを誓い 神聖なるこの神道平和祈念公園は
 二十一世紀の平和のシンボルとして 世界人類の恒久平
和実現の為の 掛け橋となることを宣言します


 アジアの大地から世界の恒久平和を発信する「平和祈念公園」は建立以来、多くの方々の協力と賛同を得て現地では日本人が建立した「シントーパーク」として広く知られている。

 平成十二年(二〇〇〇)建立五周年戦後五十五年を迎え参戦七ヶ国及びアジアの勤労者モニュメント「平和の像」を建立、七ヶ国代表者参加の中、建立式典を開催した。

 平和の像壁面にはタイ語、英語、日本語にて次の言葉が刻まれています


〈平和と希望の橋を架けるために〉


 「平和祈念公園」へようこそおいで下さいました。この公園は、第二次世界大戦に於いて亡くなった全世界の人々と泰緬鉄道建設のための労働者として亡くなった人々に祈りを捧げる場所として、一九九五年に日本人の有志の集まり「アジア和平日本委員会」により公園を設置致しました。

 まず、私たちは戦争と言う辛く悲しい過去を見つめ、戦時に於いて当地(タイ国)へ強制連行し鉄道建設の労働者として従事させ亡くなった「アメリカ・イギリス・オランダ・オーストラリア・韓国・タイ国」の人々の魂、そして、同じくこの地で亡くなった日本人の魂に心から祈りを捧げたいと思います。

 私たちは歴史の事実と真実を直視し、決してごまかしたり隠したりするのではなく、過去から学び未来を担っていく事が本当に大切だと信じています。何故ならその事こそが、世界を平和に導く重要な要素だと考えているからです。

 そして、新しい世紀を築いていく子供たちが、二度と再び戦争による悲しい体験をする事のない、平和な世界を築くための発信地として、全世界に向けて平 和の祈りを捧げたいと思います。

 「平和祈念公園」は私たちの願いを込めた公園であり、その趣旨から如何なる宗教宗派を問わず、多くの人々の祈りの場・憩いの場であり続けて行きます。 わざわざのお越しに心から感謝を申し上げます。

 世界の平和を願って 二〇〇〇年十二月一日




【参考資料/「俘虜の碑」タイ国日本人会発行】


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