歴史が語る日本鉄道隊の事実と英霊に感謝の誠と慰霊を捧げる
『平和祈念公園』
タイ王国
カンチャナブリの半世紀
 



 文明は時と共に進んで行くのに、人間の知恵はすこしも進まない。大東亜戦争からすでに五十六年を経た今日もまだ、世界のどこかで戦いが行なわれ、生命が無意味に失われてゆく。

 ここカンチャナブリで行なわれた泰緬鉄道建設に附随するいくつかの哀話も、大東亜戦争史の一断面である。

 映画「戦場にかける橋」や、続いてB・B・Cが製作した「クワイ川に還る」はいずれもフィクションであり、連合国側に立った見方をしているのは当然であろう。

 その他、日本の一部ジャーナリズムの記事等は相当、事実とかけはなれていると思われるので、正確な史実を一人でも多くの人に知っていただく為、カンチャナブリの泰緬鉄道建設のありのままの姿を、郷土史の一つとして、また日本人の一人として知っていただきたいと思います。


【1】
 バンコクから西北へ約一三○キロ、車で三時間でカンチャナブリという町につく。この町を流れているクワイ川は、遠くビルマ国境に源を発し、下流で他方 からの川と合流して大河となりタイ湾にそそぐ。

 この川にかけられた全長二五○メートル、鉄骨の橋が映画「戦場にかける橋」で知られたメクロン橋である。これは昭和十九年十二月十四日、英空軍に一度 爆撃破壊され、終戦後英占領軍の命令で日本鉄道隊が再建し現在にいたっている。この橋を含むタイ〜ビルマ間の鉄道建設工事に多数の連合軍捕虜が使われた ことを知っている人は多いだろう。だが、この橋のそばに日本鉄道隊の建てた石碑がある事、これは捕虜、労務者のための碑で日本将兵の墓は一つもない事、また付近の八千墓にのぼる外人墓地は英占領軍の命令で武装解除された日本軍が整地、埋葬した等の史実は案外知られていないようである。橋の左手たもとに 高さ四メートル、大理石の慰霊碑があり次ぎの言葉がきざまれている。


「泰緬鉄道建設中に不幸にも病にたおれた南方各国の労務者及び俘虜の為に、此の碑を建て、恭しくその霊を慰む。

昭和十九年二月 日本鉄道隊」


 石碑をかこむ四隅の壁には同文がタイ、マレーシア、中国、英の四力国語できざまれ、碑面、碑壁には英空軍の攻撃による弾痕をとどめている。この碑は戦 後十五年近く、ジャングルに埋もれていたが昭和三十八年に日本人会が敷地を買い取り管理している。それ以来、今日迄春の彼岸には在留邦人がここへ集ま り、泰緬鉄道建設に従事し、そのなかばで病を得てたおれた英、蘭、豪軍の捕虜と墓一つない労務者、日本軍将兵、軍属など数万にのぼる人々の回向をすることになっている。

 町のはずれには「カンチャナブリ共同墓地」があり日本軍の捕虜となって、工事中にたおれた八千近い連合軍軍人がねむっている。英国兵の墓碑にはバラが オランダ兵にはチューリップ、オーストラリア兵にはアカシアの花がきざまれている。日本軍将兵の墓標は英占領軍の命令ですべてとりのぞかれたまま、今は残っていない。


【2】
 泰緬鉄道建設が決定され、工事に突入したのは昭和十八年一月であった。当時ビルマでは連合軍の反攻が激しく、すでにインド洋の制海権を失っていた日本 はビルマにおける十万の日本軍の補給を陸路にたよる他なく、やむを得ず、タイ〜ビルマを結ぶ全長四二五キロ、四十の橋梁をもつ鉄道工事の建設に着手した のである。ここは世界最多雨地域と言われ、雨期に入って一度豪雨が来ると三十メートルに及ぶ水位の変化をみせ、渓谷は奔流となって道路、仮橋を押し流 し、戦前の英国が測量を開始しながら、十年かかっても困難との結論からついに放棄していた地形であった。

 工事はタイ側ノンプラドックとビルマ側タンザヒヤの双方から同時に開始され、タイ側は鉄道第九連隊(連隊長、今井周大佐、東大工学卒理博)、ビルマ側 は鉄道第五連隊(連隊長、鎌田銓一大佐、京大土木卒、米国留学時、工兵連隊長であったマッカーサーの隊附将校)が担当した。更に国鉄作業員合計三千名、 ビルマ独立義勇隊、現地労務者(ジャワ、マレー、タイからクーリー)約十万が投入され、やがてシンガポールから移送された英蘭豪が加わった。この総数は 後の連合軍東南アジア司令部の公表によれば七万三千五百二名といわれている。捕虜は収容所に国籍単位に分住し健康管理には捕虜の軍医が直接あたっていた。鉄道作業隊は毎朝収容所から捕虜を受けとり、作業終了後また収容所に帰す制度になっていた。

 南方軍の捕虜管理責任者は浜田平中将(泰方面軍参謀長兼駐タイ大使館付武官)で、中将は武士道精神から戦時国際法の厳守を主張して、ビンタなどの暴力 行為を厳禁し、この旨は、配下各収容所に対してきびしく通達されてきた。このために中将は血気にはやる参謀連からは「国際将軍」などと揶楡されるしまつ であった。作業隊側は「ビルマ戦線を救うのは俺達だ」との使命感に燃えており捕虜の保護、管理にあたる収容所側とは立場の相違から争いが絶えなかったよ うである。一方、誇り高い英軍を大部分とする連合軍捕虜は利敵作業をいさぎよしとせず、国際条約をたてに不服従、サボタージュ、仮病を使うなどの場面が たびたびあったようで、これに対し、禁をおかして日本兵のビンタがとんだ事は容易に想像できる。けれども全体としてはよく統制され、南方クーリーとは比 較にならぬ能率をあげて大切にされていたことも事実であった。日本兵と、タパコ、食物をわけ合ったりの人間的な交歓も随所に見うけられた。

 衣食の面では日本軍将兵、捕虜は全く同一の取扱いがとられ余裕のあるうちは、肉食習慣のある白人に特別生牛を補給するなどの配慮もとられていた。けれ ども工事が奥地に進むにつれて食料、衣料、医薬品など物資の補給は困難になっていた。当時の食料は、中からむかでや、さそりのはい出して来るカビの生えた乾燥野菜をほぐし、これに乾燥みそをとかしてつくったみそ汁、飯に塩をかけるなどで日本将兵はこれを戦場食として耐えていたが、これに対して肉とパンを食事に欠かすことのできない白人捕虜側から不平が出たのは、むろん当然すぎるほど当然のことであった。しかし物資の補給もなく、不平不満をかかえたま ま工事は奥地へとのびて行った。戦時下に於ける物資困窮と日本人、西欧人間の大きな生活程度の差が捕虜虐待と言われる原因の一つになったのは間違いないと思われる。

 日本軍将兵、捕虜、クーリーともに最悪の栄養状態のとき、コレラ第一号がアパロンというビルマ側地区のクーリーの中から発生してしまった。患者は厳重 な隔離、消毒の上、生水、水浴等が禁止されたが、クーリーは衛生観念が低く、危険地域の保菌クーリーが後方へ脱走するという事態がおこったため、コレラはたちまちクーリーの間にまんえんした。不運にも雨期が一ヵ月早く四月にはじまり、ビルマ側工事地域はいちめんの泥海となり、雨はコレラをタイ側へもは こんだのである。

 四月はじめ、ニイケ地区のクーリーの宿舎から発生したコレラは疾風のようにケオヤイ川をくだり、タイ側全工事地域にひろがった。八月に入り、ターカン地区鉄道中隊本部へ瀕死の捕虜がはこびこまれた。英人軍医はただちに真性コレラと診断をくだし、中隊長藤井中尉とはかり、もう助かるみこみのない患者を射殺処理することで続発をとめた。患者を希望のない苦しみからすくい、他の犠牲者の発生を防いだ戦場に於ける非常措置であった。ロンドン・タイムスもこの事件に対して同情的論評を加えているが、俘虜収容所長中村鎮雄大佐はこの処置を非として軍法会議にかけ、藤井中尉を免官処分とした。日本軍将兵の捕虜取扱態度に対して猛省をうながそうとしたのである。無論、この間、鉄道工事は中断されることなく続けられていた。

 こうして一見、不可能に近いとさえ見えた難工事も卓抜した鉄道技術と不屈の工兵魂によって昭和十八年十月十七日、タイ領コンコイターで双方の鉄道が連結して一応全線開通のはこびとなった。工事着手から完成まで、わずか十ヶ月、驚異的な短期間であった。

 投下労働力は

・日本軍及び軍属一万五千名
・俘虜七万三千五百二名(東南アジア連合軍司令部発表)
・クーリー十万名(推定)


 合計二十万名の作業人員が四二五キロの全工区に配置され、一人あたりの土工量二・五メートルの大変な人海戦術である。

 日本人犠牲者は書類焼却等で正確にはわからないが、推定千名、白人捕虜は連合軍の発表によればコレラによるもの五百六十名、マラリア、熱帯かいよう、栄養失調等によるもの一万五百六十名その他を合わせて二万四千四百九十名となっている。

 このような犠牲の上に敷かれた鉄道の上を、日本兵は風雲急を告げる戦場ビルマへと送られていったのである。


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