愛知県蒲郡市の三ケ根山頂には、かつて極東国際軍事裁判(東京裁判)においてA級戦犯の汚名を着せられた七烈士が祀られる「殉国七士廟」が建立されています。

 日本青年社は昭和46年から毎年4月29日に殉国七士廟慰霊祭に参列、今日まで30年にわたって奉賛活動に取り組んでいます。


 昭和20年8月15日、わが国の敗戦によって終結した大東亜戦争の戦争責任を、アメリカ・中国・イギリス・ソ連・オーストラリア・カナダ・フランス・ニュージーランド・インド・フィリピンの11カ国は極東国際軍事裁判を設置して追求することを決定しました。いわゆる東京裁判です。

 裁判は事後法により審判され票決によって絞首刑を含む判決がなされ、昭和23年12月23日末明、絞首刑の判決を受けたA級戦犯とされた七士の絞首刑が執行されたのです。

  また当時としては命がけともいえる火葬場から七士の遺骨を盗み出そうという話が決まったのは、絞首刑の判決がいい渡された昭和23年11月12日の午後のことでした。

  では、なせこのような計画か決定されたのか。

実は絞首刑の判決を受けた七士の各担当弁護士は、遺体を家族に引き渡したいとの思いからマッカーサー司令部を訪問、請願したが了解を得ることかできなかったからなのです。

 このままでは、遺体はもちろん、遺骨も家族に渡されないことは明白。そこで数名の有志たちは「せめて遺骨の一部だけでも遺族にお渡ししたい」との一念により、無法とも思える計画を立案しました。無論、その実行計画は極秘裡に、しかも綿密に策定されることが絶対条件だったのです。それには、まず刑の執行日を速やかに探知しなければなリません。そこで有志の一人か極東国際軍事裁判に関与した某アメリカ検事に近づき、ようやく七士の刑の執行日はクリスマスの前日の12月23日、また失葬場も推察することができました。そこで有志たちは火葬場である横浜市久保山火葬場の買収工作を行ない成功したのです。

 しかし、当日はアメリカの監視が厳重であったために目的を果たせませんでしたが、翌24日はクリスマスイブなのでアメリカ人は浮かれて見張りが手薄になることがわかりました。
 当日、木枯らしが吹き荒(すさ)ぶ夜半、黒装束に身を固めた三文宇正平弁護士と市川伊男(これお)住職は、飛田火葬場長の案内で目的地に近づきました。穴は暗くても灯火と物音は絶対禁物なのです。見張りを気にしつつ手さぐりで灰をかき集める作業は想像以上に難事でした。

 こうして取得した遺骨は、一時、人目を避けて伊豆山中に安置されていましたが、幾星霜(いくせいそう)を経て、その後遺族をはじめ政財界その他各方面の有志の賛同と幡豆町の好意を得て、日本の中心地・三河湾国定公園三ケ根山頂に埋葬して墓石を建立し、昭和35年8月16日、静かに関係者と遺族が列席して初の慰霊祭が行なわれました。

 以来、毎年4月29日「昭和天皇御誕生の日」に慰霊祭を執り行なう中で、殉国七士廟の存在は多くの人々に知られるところとなり、今日では七士廟の周辺に大東亜戦争での戦没者を祀る各部隊の慰霊碑が並んでいます。

 日本青年社が30数年にわたって続けている殉国七士廟慰霊祭参列は、わが国の歴史の真実を明らかにするためにも、後世永遠に語り継ぐためにも永遠に続けていかなければなりません。