平成15年6月17日

尖閣諸島魚釣島上空より全景を望む

 尖閣諸島魚釣島の灯台は昭和53年8月12日(日中平和友好条約調印)に建設、爾来今年で25年目を迎えた。

 今年は灯台のバッテリー交換時期であり、魚釣島渡島は5月12日〜18日の予定で出発、14日出港、15日に灯台保守点検、バッテリー交換、尖閣神社例祭、先人物故者慰霊祭が予定されていたが、計画の後に沖縄県が梅雨入りしたために尖閣諸島海域には梅雨前線が停滞し最悪の気象条件と重なってしまったことから魚釣島上陸は梅雨明け後に再度行うこととなった。

 また、今年の魚釣島渡島には日本青年社議員同士連盟幹事長である岡田康弘岡山県津山市議会議員も同行しているので、本HPでは岡田康弘議員の手記と日本青年社が取り組んでいる尖閣諸島25年の歩みを報告することとする。



平成15年06月17日
日本青年社議員同志連盟幹事長
岡山県津山市議会議員
岡田康弘

古賀辰四郎の碑の前で
(岡田議員)
 最近、いろいろな機会に「日本はこれからどうなるのだろう」と聞かれることが多くなった。年齢は私と同年輩から若い人まで、さまざまであるが少なからず人々が、二十一世紀を迎えて、日本の将来が心配だと思っている。

 しかし、私はこうした問いを聞くと、むしろ安心感を覚える。何故ならば、この方々も真剣に日本のことを考えており、日本のこれからを憂慮していることを改めて気づかされるからだ。

 ちなみに私の生まれたところは岡山県だが、北部に位置する津山市である。津山市は鳥取県との県境にあたる山間部であり、海に面していないためか、土地柄、領土問題には関心が薄いようである。私が日本青年社に所属した昭和五十八年には、すでに尖閣諸島魚釣島に日本の領土であることを示す灯台が建設されており、毎年、灯台の保守点検と電池交換のために同志が上陸していた。これらのことは機関紙「青年戦士」などで報じてきたところであるが前記したように、私の生まれが山間部ということで、子供の頃から海に憧れ、特に日本が抱える領土問題に興味を抱いていたのは事実であるが、この度、偶然にも以前から尖閣諸島に上陸してみたいとの思いがかない、ようやくその機会がやってきたと安易な気持ちで上陸を夢見ていたが、それは大き間違いだった。

 以下に尖閣諸島への渡島記録を記す。

5月14日(水)
23:00 海保の荷物検査
23:00 石垣島登野城港出港

5月15日(木)
05:40 尖閣諸島魚釣島沖到着
06:30 上陸開始(三回トライ)
08:05 悪天候のため上陸断念
09:15 久場島(周辺調査)魚釣島から16キロ地点
10:40 沖の南岩・沖の北岩・北小島・南小島・飛瀬(周辺調査)
11:20 石垣島登野城漁港帰路
17:00 石垣島登野城漁港帰港

5月16日(金)
13:00 後かたづけ

5月14日(水)

23:00 

 海上保安庁による徹底した荷物検査を受け、挙げ句の果てにはポケットの中まで調べられる。別にどうってことはないが防弾チョッキを着用した上に盾まで装備している物々しさには驚きであった。

 また、カメラのフィルムの本数まで聞かかれた。まるで私たちが治外法権の他国に上陸するかのような徹底ぶりである。
 やっと荷物検査が終わったかと思ったら今度は乗船するチャーター船の立ち入り検査である。

雲が掛かりつつある魚釣島

23:40

 やっと石垣島登野城港である。船長に尖閣までの時間を尋ねてみたら朝方になるという。距離にして約175キロであるが、所要時間は6時間位だという。
 いよいよ出港だ。石垣島の灯りを背に受け、船首から流れる夜風を浴び心地よい。この時点では私たちにも余裕であった。しかし三時間後には悪夢を見ることとなったのである。
 石垣島の灯台の灯が見えなくなる頃、海上保安庁の船が少し離れて追尾してくるのが見えた。この頃になると島影は何も見えず、ただ巡視船の赤色灯だけが点滅しているのが見えるだけだった。
 この時、誰かが「思ったより寒くないな」といったが、私は空いている場所に横になって眠ってしまった。途中で目を覚ますと波が激しく船底を叩き、身体を床に容赦なく打ち付ける。揺れは上下だけでなく横揺れも激しく身体が左右に揺れるのを防ぐのに手を突っ張っているのがやっとであった。今度は雨である。大の男たちが船尾に身体を寄せ合い雨を凌いでいる。情けない話だが、その繰り返しで何とか現場に到着した。

5月15日(木)

朝日に灯る魚釣島漁場灯台

05:40

 夢にまで見た尖閣諸島魚釣島沖に到着。灯が見えた。尖閣の灯台の灯が見えた。思わずカメラを取り出してシャッターを切るが、立ち上がることができない。あまりの揺れに立ち上がることすらできない。私は、これが尖閤かと片手で支えを掴み、片手でシャッターを切る。誠に情けない。まわりを見回すと薄明りの中に海上保安庁の船が二隻に増えていた。おまけに巡視船からエンジン付のゴムボートとアルミボートの二艇が私たちの船を警戒している。


06:30
 
 上陸準備を開始。先発隊二人が荒波のなかにゴムポートを降ろして乗り込む。ロープをボートの先端に括り付け離船したが、ボートは瞬時に数十メートル流された。潮流が早くて上陸するような状態ではない。ロープを手繰り寄せもう一度挑戦する。ダメである。私より若い隊員たちが上陸を目指すが思うようにいかない。(私より若い隊員が挑戦してもダメなものを、私がやりますというようなことはいえる筈もなくただ眺めているだけである。自分の体力のなさ自信喪失か)三度目の挑戦を試みたが、どうしても離船する事はできない。何やら海上保安庁が叫んでいる。「波が高いから危険です」といっているようだ。手の届く程の位置にある尖閣諸島魚釣島までは距離にして150メートルほどだが悪天候が災いしてどうにもならない。


08:05

 三度目にトライもままならず上陸を断念した。考えてみればここで海難事故でも起きれば次回の上陸は難しくなる。それゆえ無理な挑戦は避けても致し方ないことである。リーダーの正しい判断だと納得する。
 
 この時私は『尖閣、我、よせつけず』残念無念の想いであった。これより北へ、26キロ先にある久場島に向かう。


09:15

 久場島周辺調査後に再び魚釣島沖に引き返す。魚釣島周辺には南小島・北小島の二つの島と、沖の南岩山・沖の北岩・飛瀬の三つの岩礁があるからだ。


10:40

 沖ノ南岩・沖の北岩・北小島・南小島・飛瀬周辺調査


11:00
 
 石垣島登野城漁港への帰路に付く


17:30

 石垣島登野城漁港に帰港

5 月16日(金)

 

無念!魚釣島を前にして去る
(岡田議員)

石垣島に帰還して思う。

 石垣島から175キロほど北に位置する尖閣諸島は東シナ海の中央にある。写真などで見る限りでは、「誰でも簡単に上陸できる」「誰にでも行けるだろう」と思う方々が大半ではないかと思う。(私自信身、安易な考えを持っていたことをつくづく反省)、まず、6時間からの長時間を時化の多い海の航海は、漁船の甲板で雨や風に耐えられる体力が必要である。船酔いに耐えられなければならない。実際に横になって休んでいても波が船底を強く叩くので身体が左右に転がる。それを支えるために突っ張っているために、筋肉の痛みや身体中の打ち身が帰港してからわかる。

 上陸開始にともなって魚釣島沖合150メートル地点からゴムボートを擢による手漕ぎで進まなければならない。(湖や溜め池でのそれとはまったく異なる)これには強靱な体力が必要で、最初に上陸する一番隊はロープを引っ張っていくが、このロープが波に流されゴムボートが瞬時に流されるという極めて危険な状況を目の辺りにして自分自身の体力の不安を感じた。ゴムボートでの上陸は三回の挑戦を試みたが悪天候のために断念。これも海難事故のために今後、尖閣に上陸できなくなってはとの思いからである。

 今回は、悪天候のために上陸を目前にして断念せざるを得なかったが、もし、今後その機会が来たれば、あまたの先人が住んでいたあの尖閣諸島に上陸してみたいという気持ちは以前より強くなり私は熱く燃えている。私が日本を思うとき常に想起するのは、碧一色の空のもと、海の彼方に望むことのできる新緑の島影です。正に尖閣諸島は日本というよりも祖国の人々を守り育ててきた母として、私たちを我が子を迎えるように抱きいれてほしい。いずれにしても、尖閣諸島はそう簡単に人をよせつけそうにない小さくても大きな偉大な島である。私たちの国、日本が抱える領土問題は、北方領土・竹島・尖閣諸島がある。北方領土はロシア、竹島は韓国、次は尖閣諸島に中国か台湾か……。尖閣諸島は、なぜ日本人が失ってはならない島なのか。その理由が多くの日本人にはよく判っていない。政争に明け暮れる日本政府は、肝心な大事なことを国民に知らせていないばかりか、この問題にふれないからである。