歴史の歪曲
日本人を貶める歴史の歪曲を許してはならない

平成26年8月5日

はじめに  

  今、我が国は歴史上初めてと思われる恥辱を世界の人々から受け続けている。日本人の品格をいちじるしく貶め、外国に居住する日本人が、自らを日本人と名乗ることも出来ずにいる屈辱的な現象さえ生み出している。

 このような情況を許しておくことは日本が日本で無くなる事であり、日本国と日本人の未来を封殺する事である。全ての日本人は自らの力で、このいわれなき逆風に立ち向かわなくてはならない。 




日本の戦後はいつ終わるのか



 日本政府は韓国と昭和40年(1965)「日韓基本条約」を結び、全ての清算を行った。ここには「日韓請求権・経済協力協定」で日本が韓国に3億ドルを支払い、両国及びその国民の間の請求権などが「完全かつ最終的に解決されたこととなること」が確認された。両国とあるのは日本が韓国に併合時代に投入した金額が膨大になる為、その算出はしないという事になる。生産能力がほとんどなく、疫病が全土に蔓延している国に大学をはじめ教育施設を作り、鉄道、橋を作り、発電所を作り、日本国内以上の投資をし、近代化を推進したのであるから、韓国は非常に有利な条約締結だった筈であった。しかし1990年代に入ると「植民地時代の謝罪がなく戦争に動員された人々への補償がなされていない」などを理由に条約改正運動が起こった。「信義」という言葉が存在しない国があるとすれば、それは韓国であろう。少なくとも日本から無償で3億ドル、有償で2億ドルを引き出し、日本が作った発電所や工場をフル稼働させて「漢江の奇跡」を起こし、北朝鮮を遥かに追い越す発展を実現した。1970年代には日本への不満などある訳がなかったのである。


 日本も竹島問題をはっきりさせないまま条約を結ぶという失敗をしていた。1952年1月、李承晩ラインを一方的に宣言し、島に領土標を建て、灯台、無線アンテナを設置し、武装警備員約10人を常駐させてしまっている。日韓条約の際は「将来外交経路及び調停により解決する」こととし、事実上たなあげとなってしまった。韓国の実効支配を許し、その状態のままたなあげしたのでは、時間が韓国の味方をするであろう。竹島問題の解決は62年過ぎてしまった現在、具体的展開をしなければ国際的に韓国領と見られてしまう恐れが多分にあり、国際司法裁判所もいつまでも日本の正義を認めるとは限らないのである。韓国の不法な竹島領有をボカし韓国の限りない日本への補償の要求を続ける根拠は「日本が戦争中、いかに悪い事をしたか」を証明する事にあった。この時日本国内に韓国の動きに呼応する人々が現われた。


 代表するものとして「朝日新聞」とそれをとりまく左翼リベラル派といわれる人々である。彼らは日本の過去の歴史に嫌悪感を持ち、自らを「進歩的文化人」と称していた。彼らは「東京裁判」を基本的に支持し、戦争と平和を単純に対比させ、一切の戦争勢力を否定していった。それ故に日本国憲法が、アメリカの学生によって起草された不完全な空想的なものであることを知りつつも、金科玉条として守ってゆく事を任務としていた。慰安婦問題を浮上させたのもこれらの人々であった。


 そもそも「従軍慰安婦」という言葉も彼らの造語であった。1990年代初め慰安婦問題が過熱してきた最初の仕掛け人は、吉田清治という人物であった。彼が済州島で奴隷狩りをしたという話を、朝日新聞の川崎支局に持ち込んだのが1980年代であり、話を聞いた記者は話しがあいまいなので取り上げないでいたが、本社で「勇気ある告発」として取り上げ、それを韓国の支援団体が利用し宣伝したので、大問題に発展していった。


 河野談話が出される時、16人の慰安婦の聞き取り調査を行ったが、その時立ち合ったのは、日本に対する訴訟を行っていた、福島瑞穂であったのは有名な話である。後に彼女は社民党という公党の党首になるのだが、日本を敵に回して争う人間が国会議員になったり、党首になったりすることの出来る日本という国は何と寛容な国であるのか、又それを支持する国民が存在している事も私たちには不思議である。


 先日「河野談話」の検証が行われた。検討チーム(但木座長)による国会報告によれば「元慰安婦の聞き取り調査を基にして談話が作られたのではないことがはっきりとした」(山田宏衆議院議員)と聞き取りは単なる儀式であることが明らかにされた。しかし安倍内閣では河野談話の見直しや否定は行わないという。当然韓国政府への配慮であろうが、そんな事は国際社会で通用するのだろうか。韓国は日本の誠意や信義が理解出来る国ではない事こそ、これまでの経緯で学んだことではないだろうか。




日本精神の復活こそ日本人の活路


 私たち日本人の先人たちが、命をかけて日本とアジアの未来の為に闘い抜き、力尽きて敗れた大東亜戦争は、日本の敗北と同時に全アジアに植民地からの解放をもたらした。当時日本とタイを除けばアジアは全て西欧列強の植民地とされ、全ての富は欧米に吸い上げられていた。アジアの人々にとって植民地からの解放、独立こそ、平和と繁栄の道であった。日本は「八紘一宇」の精神により「大東亜共栄圏」の建設を目指した。この崇高な目的を認める事は欧米諸国には出来なかった。それは植民地という巨大な利権を失う事になり、世界大革命が実現してしまうからであった。日本の闘いの目的を自分たちの醜い植民地主義と同一化させる事に腐心した。日本の戦争目的を植民地主義に基づく侵略戦争としなければ、自分たちの犯した罪が免罪できなかったのである。


 兵士もいない無防備な都市、広島、長崎に原子爆弾を投下し、無差別殺人、ホロコーストといった、歴史上類を見ない虐殺行為は、未来永劫、世界の人々の記憶から消し去る事は出来ないであろう。これらの問題を全て日本の責任にする為に行われたのが「極東軍事裁判」であり、戦勝国による私刑裁判であった。理不尽極まりないこの裁判を受け入れざるを得なかった。一切の抗弁も許されずA級戦犯として7人が処刑され、残りの人間も様々な刑が言い渡された。日本側に引き渡された人々を救おうと国会決議が行われ、全ての人々は解放され国家再建に立ち上がったのであった。日本が独立し直ちに行われた国連加入はA級戦犯重光葵が出席し、万雷の拍手で認められた。日米同盟の基軸をなす安保条約はA級戦犯岸信介により批准した。


 このように戦犯にされた方々は、戦後日本の中枢として日本を支えてきたのであった。


 私たち日本人は戦いによって散華した戦没将兵、東京裁判によって処刑された殉国七士の方々、その他、空襲、原爆により命を奪われた方々を心から慰霊し、二度とこのような悲劇をくり返さない決意を持たなくてはならないのである。


 国を代表する首相が、靖国神社を参拝する事は一番重要な事である。国を護る為に命を捧げた方々を、後の世に生きる人々が感謝の誠を捧げる事が出来ないならば、誰が命を捨ててまで国を護ることが出来るのか。日本人の心の真髄がそこにあるのである。単なる儀式ではない、日本人の心そのものが参拝にはあるのである。それ故内政干渉とも言える、首相の靖国参拝に対する中・韓の抗議に対して、自分の意志をはっきり表明し、行動で示すのが日本の首相の最低の条件である。


 戦後靖国神社への首相の参拝は当たり前であり、粛々と続けられてきた。ただ三木首相が参拝した時に「どういう立場で参拝したのか」とたずねられ、「私人として」と答えたことから、天皇陛下の御親拝が出来なくなってしまった。公人中の公人である陛下が「私人として」となど言える訳がないのだ。しかし決定的に首相参拝を困難にしたのは中曽根である。この男は靖国参拝を歌舞伎役者の顔見世のように考えていたのか、全閣僚をしたがえて、華々しく参拝を行い、それを中国から注意されると(当時は抗議ではない)友人胡耀邦の立場が悪くなるとして、翌年からの参拝を中止してしまった。この中曽根の行動が中国に対し「日本は何でも言う事を聞く」という誤ったメッセージを送った事になり、以降日本の内政に干渉してくるようになったのである。


 日本青年社は当時の小林会長が「中曽根は何を考えているのだ」と怒ったことを受けて、抗議活動を行ない逮捕者まで出した。しかし、国内で抗議活動をしたのは日本青年社だけであり、現在の状況を考えると非常に残念なことであった。


 私たち日本青年社が毎年行っている愛知県三ヶ根山頂の殉国七士廟への参拝は「東京裁判」を根底から見直す、ラジカルな運動になっている。天皇陛下をお護りする為、一切の抗弁をせず、理不尽な判決に堂々と従った七士の姿に私たち日本人の心を感じ、サムライの生き様を見る事が出来るのである。




タイ王国カンチャナブリ県に建立された 「平和祈念公園」は日本精神発揚の場


 大東亜戦争をアジアへの侵略戦争と決め付けた村山富市による「戦争謝罪国会決議」が反対議員を締め出し、一握りの議員によって成立した事に抗議し、日本青年社を中心にした多くの有志によって、日本人の本当の心を世界の人々に知らせるべく建立されたのが、タイ王国カンチャナブリ県クワィ河畔に建立された「平和祈念公園」である。


 「平和祈念公園」は、わが国が戦後50年を迎えた平成7年、かつて祖国を護るために闘い尊い生命を散華した旧日本軍戦没将兵が、戦後半世紀を経過するも祖国の土に屍を晒しつづけている現実に心を痛めた有志が、今に生きる日本人として、戦後日本の平和と繁栄の礎になった英霊に心から感謝の誠を捧げる慰霊施設を建立して、終戦50年の記念式典を行うことを計画。建立地は古来より日本と友好関係にあり、今も激戦の地として語り継がれるインパール作戦ゆかりの地であるタイ王国カンチャナブリ県に建立した総面積3000坪の庭園である。園内には地上7メートルの「平和祈念慰霊碑」と「桑井川神社」が建立されており、現在は日本人が建立した「シントーパーク」として世界に広く知られている。


 戦後70年を迎える来年は、建立20年を迎える平和祈念公園から、戦後日本が世界から受ける誤った歴史認識を正すべく、わが国の正しい歴史認識と崇高な日本精神を明らかにするとともに、世界恒久平和の祈りを発信する歴史的な記念式典に向けた準備が進めているところである。




戦後日本が世界から受ける誤った歴史認識を正すために


 歪められた日本人の姿を元に戻す為には2つの方法がある。一つは韓国・中国によって世界中にバラ撒かれた嘘による日本人悪人説を真実によりひっくり返す作業、これは全世界に存在する大使館を中心に、国家の責任として徹底して行わなくてはならない。


 もう一つは民間の力で日本人の心を示すことである。かつて国際連盟の職員であった新渡戸稲造は日本人の事を知らない欧米人に英文で「武士道」を書き、日本人の品格の高さや仁義、信義に厚い姿を発表し、以降日本人は世界の人々から尊敬の念を持ってみられるようになった。新渡戸の理想は札幌農学校時代に培われたクラーク博士による開拓者魂と日本人が持ち続けていた武士道により「清き国」を建設する事であった。


 私たちは今、「武士道」を日本精神として復活し「平和祈念公園」を拠点として、全世界に平和と日本精神を発信していかなくてはならない。現在に生きる新渡戸稲造として…。