特別企画
日本青年社の目的とその活動を語る座談会(4)




【座談会出席者】


●杉山 洋 会長補佐  ●加藤順一 副会長

●亀田晋司 副会長  ●大久保叡 統括長

●富施光治 総務局長  ●篠塚栄一 行動隊長


 50有余年にわたって民族運動に携わってきた日本青年社。日々の活動と存在が大きく変化する中で、平成11年に右翼民族派改革元年・新たなる民族運動の構築をスローガンに掲げた意識改革と体質改善を図った日本青年社の前号に引き続く、特別企画・「日本青年社の目的とその活動を語る」座談会の記事を掲載。今回は、前回に続き尖閣諸島の 灯台をめぐる領土問題を掲載します。

日本青年社 灯台建設から実効支配の27年


灯台の灯が消えている

【司会】今度は何ですか。

【亀田】それが事実なら早く灯台を修復しなければならないので、北小島の灯台と同じものを作って再々石垣島に行ったんですが、海保は頑として船を出港させないんです。ようするに我々が北小島にいくことを拒むんですね。さすがにおかしいとは思いました。そのうちに海保が持ってきた一枚の写真で北小島漁場灯台がすでに消失していたことを確認しました。

【司会】その写真はどのようなものでしたか。

【富施】灯台の基礎の上にあるフランジの表面が写ってるだけなんです。もし灯台が何かの理由で損傷を受けているなら、基礎のフランジについているボルトまでなくなるということはありえないんですね。おかしいでしょう。

 それと、この年は中国の要人が訪日したり橋本総理が訪中したりして海上保安庁も上の方から色々と命令されているようでピリピリしていたようでした。

【司会】新しく作った灯台はどうしたんですか。

【富施】与那国島の倉庫にあります。そしてその年も魚釣島には例年通りに保守点検に行きましたから、そのとき北小島に上陸して周りを見たり海の中まで覗きました灯台の姿はどこにもありませんでした。灯台がなくなったあとで橋本総理が中国で「あの灯台はもうない」と話したということを伝え聞きましたから、灯台を建てた同志は今もその灯台は故意に破壊されたと思っていますけどね。

【司会】それと平成8年に北小島の灯台を建設したとき、中国と台湾で物凄い反日運動が広がりましたね。

【富施】そうですね。いま香港から来た中国人が海に飛び込んで死亡した話しがありましたけど中国の反日行動は灯台だけではないんですね。日本に内政干渉するときは、いつも一番いい標的を見つけてそれをダシにするんです。靖国問題もそうじゃないですか。

【亀田】そうです。灯台を建設した平成8年から9年にかけての反日行動には国会でも大騒ぎしましたね。日本固有の領土なんだからもっと毅然として対応をとればいいのに。と思いましたが、私はその当時の新聞記事を1年分スクラップしていますが相当の量になります。

【司会】そうすると平成9年に北小島の灯台がなくなってしまった後は魚釣島灯台の保守点検を続けていたんですか。

【杉山】そうです。北小島の灯台がなくなってからは、魚釣島灯台だけになりました。それからは日本青年社の若い人たちが交代で尖閣諸島に上陸していますが、ある時期から島に行くときの服装について余り言わなくなりましたね。

【司会】服装のことを言わないとはどういうことですか。

【富施】そうですね。平成11年ぐらいまでは、海上保安庁も中国を気にしていたようで、中国というより外務省を気にしていたんでしょうね。「迷彩服は着ないでくれ」といっていたから迷彩服を着るようになったのは平成12年ごろからだと思います。
 
 それと尖閣諸島に行くとき「漁師が漁に出て魚釣島の漁具を修理することにしておいて欲しい」といわれたこともあります。

【司会】色々な話しを聞いていると、尖閣諸島問題は日本の縦割り行政の歪みが露骨に見えてくるし対中国外交の動向まで読み取れるような感じがしますね。その後はどうですか。

【富施】平成12年に魚釣島に神社を建立しました。そして日本で始めて神官が尖閣諸島に上陸して祝詞をあげました。それ以降も魚釣島には神官が上陸して神事を続けてきました。

【司会】そうですか。このころになると若い人たちがかなり上陸していますね。

【富施】そうですね。最初の灯台建設から20年経っていますから、上陸隊員の顔ぶれも変わりました。でもそれはいいことだったと思ってます。

【司会】亀田さんが上陸したときはどうでしたか。

【亀田】私も尖閣諸島に行くのは悲願でした。最初に上陸したのは平成12年でしたが迷彩服ではありませんでした。それと魚釣島での作業は殆ど同じだと思うんですが、感動したことはいっぱいあります。先ず夜中に石垣港を出港するじゃないですか。そうするとさっき話しに出ていたけど、星の数がすごんです。そして海には夜光虫が光ってるんですが波が船に当たって砕けると、その光がきらきらと飛び散るんです。あの光景は本当に神秘的でした。

 あと石垣島の人たちは凄く協力的じゃないですか。東京の人たちと全然違うんです。先輩たちが、尖閣諸島の活動ができるのは石垣島の人たちが日本青年社を理解してくれているからだといいましたが、そのこともつくづく感じました。

【司会】そうでしたか。大久保さんのときはどうでしたか。

【大久保】私も亀田さんと同じで星の数の多さと夜光虫の美しさに感動しました。それと私が行ったときは天候があまりよくなくて洋上にでると黒い雲が見えるんです。その雲が近づいてくると海面のうねりが大きくなってくるんです。そのうちに雨が降ってきてうねりがどんどん大きくなってくるんです。

【司会】海の気候は良く変わりますから気をつけないといけませんね。

【篠塚】それと平成15年に産経新聞に連載されている石原都知事の「日本よ」に「海図に載らない灯台」の題して、日本青年社の活動を書いてくれた。その後もテレビでも話してくれていますけど尖閣諸島のことを国民に知らせるためにもテレビも新聞ももっと報道しなければいけませんね。

【司会】平成16年3月24日の朝のニュースで、中国船が領海侵犯して7人の中国人が魚釣島の上陸したと報道がありました。我々はそのニュースを見て総本部に緊急招集して対策本部を設置したんです。会議中にNHKの11時のニュースで細田官房長官が政府見解を発表するとの一報が入ったんですが、NHKも民放も一切報道しなかったですね。

【加藤】この日は全国的な人気があったドリフターズのリーダーの葬儀があったんですが、テレビはNHKも民放も日本の領土主権が侵されてる事実を報道しないでタレントの葬儀ばかり報道してたんです。

【司会】それでは国民は尖閣諸島で何が起きているのか全く分からないじゃないですか。

【大久保】そうなんです。だからあっちこっちのテレビ局に電話しました。「御社は領土問題とお笑いタレントの葬儀とどっちが大事なんだってね」それでもテレビ局はタレントの葬儀一色でしたね。

【司会】そうですか。それで会議はどうだったんですか。

【加藤】午前10時には関係役員が全員集まりましたから直ぐに会議を開いて、明日一番で石垣島に向う部隊と霞ヶ関で外務省や海上保安庁、そして中国大使館に向けた抗議部隊を設置して、現地の状況を調べたりマスコミ対応に追われましたが、先ず石垣島の向うメンバーの選定です。これは魚釣島に向けて出港する部隊と石垣島で色々な物事に対応する対策本部員ですが全部で15名でしたのでその日の内に全員の航空チケットを手配しました。東京で関係官庁に抗議する部隊は余り時間がなかったので関東近県から300人ぐらいだと思いますが動員をかけました。

 それと関係省庁に手交する抗議文ですが、これもその日の内に作成しました。

【司会】
ものすごく早い対応ですね。でも事件が起きた翌日に行動するための準備は大変だったでしょ。

【加藤】そうですね。翌日の24日は石垣島入りする部隊と東京で行動する部隊がありましたからその手配と準備は大変でしたね。

【司会】それでは翌日の25日に15名で石垣島に向ったときの話をしてください。

【富施】朝一番の羽田〜石垣空港直行便で出発しました。

 我々が毎年尖閣諸島に向うときも石垣空港には海保と警察の職員がいますが、このときは凄かったですね。

 石垣空港に着くと報道カメラを構えたマスコミと私服の八重山警察署員が大勢待ち構えていましたが、そのまま宿泊ホテルに向ったんです。ホテルについて直ぐに訪ねてきたのは八重山警察署長と警備課長でした。要件は「日本青年社の出港を見合わせて欲しいということでしたが、警察署長が「いま尖閣諸島魚釣島で県警が実況見分をしているので上陸しないで欲しい。少し日数がかかるが実況見分が終れば出港を認めるということから一応の話し合いは終りました。

 あとはマスコミ各社が仕切りなしに取材に来るので午後2時から纏めて記者会見を開くことを発表して海保に行ったんですが、担当官は我々の出港を否定も肯定もせずに、波の状況はどうだとか、天候はどうだとか、まるで我々の船を出港させるような話をするんです。

【司会】
そうですか。

【大久保】ですから我々も警察の実況見分が終れば石垣港を出港できると思っていたところに、海保も波の状態を話したりして出港を阻止するようなこともいわないから、あー我々の船を出港させるんだなと思いました。それからホテルに戻って記者会見を開き、午後8時ごろに皆で食事をしながら出港の打合せをしていると地元関係者から「石垣港の岸壁に大勢人が集まって騒がしい雰囲気になってる」と電話がありました。

【司会】それでどうしましたか。

【大久保】我々は船を出港させるつもりでしたからそのままホテルに戻って最終的打合せをしているとき『石垣港の岸壁に海保、警察、マスコミ関係者が100人以上集結している。船の船長と機関長も船から降ろされいるようだ。岸壁がライトの光で昼間のように明るい。大勢の人が集まっていて映画の撮影のようだ』と連絡が入りましたね。

【富施】我々とすれば、なぜそこまでするんだという気持ちが強くなりますよ。それで夜中の11時ごろ岸壁に向ったんですが凄い人の数なんです。

【司会】何も知らない人が見たら異常な光景だったでしょうね。

【富施】そんなことはないと思います。石垣島の人たちは日本青年社が尖閣諸島に灯台を建てて領土を守っていることを知っているし、私たちが行けば「これから行くんですかとか、行ってきたんですか」って声をかけてくれますからね。それと我々が石垣島に入ったときも日本青年社の動きは早いとすごく喜ばれましたからね。

【司会】そうですか。それからどうなったんですか。

【富施】その先ですね。現地は警察と海保が2重になってバリケードを張ってるんです。そしてその周りにマスコミ関係者が100人ぐらいいるんですね。

 ですから我々の行動と警察や海保の動きは全部写真やビデオで撮られているんですが、我々が歩いていくと先ず警察の検問があるんです。これを抜けると今度は海保の検問があるんです。それを抜けると我々の船があるんですが、船長と機関長は船から表に出されていて船は太いロープで縛られているんです。そこで30分ぐらい押し問答になりました。

 そして最後は海保の保安官が「海上保安庁条例第十八条を適用」ということになる。ですから出港を断念して引き上げたときは午前1時近かったですね。しかしこのときはその一部始終をマスコミが取材してましたから全国に流したんです。

【司会】石垣島にいて何で全国に流れたことが判ったんですか。

【富施】翌日の朝起きてテレビをつけると昨日のことが放送されてましたし、東京からもニュースでやってるという電話が頻繁に入りましたから。

【大久保】それと翌日の25日に石垣市議会が緊急議会を開いて尖閣問題を取り上げたんですが、議会は我々の迅速な行動を大変評価してくれて撮影ビデオをもって傍聴席にいれてくれましたし、島の人たちも23日に中国人が上陸し、翌24日に日本青年社が石垣島にはいったことに感動していました。

【司会】東京都での抗議行動は、どうでしたか。

【亀田】東京も200人以上の社員が外務省、国土交通省、海上保安庁、そして中国大使館に抗議文を手交して抗議行動を実施しました。

【司会】その後はどのような流れになったんですか。

【亀田】
それから10日ぐらいたった4月6日ですが、総本部で役員会議をやってるとき警察庁から2人の担当官が、内閣府からの尖閣諸島魚釣島への渡航禁止の通達書を届けに来ました。そこで我々はそのまま内閣府に行って参事官と話し合いをしましたが、担当者は「通達書は政府の見解であるが日本青年社の意向は必ず伝えるというので我々は予定通り4月7日に石垣港を出港して魚釣島に上陸することを伝えたんです。

【司会】
政府を相手にずいぶん強硬ですね。

【亀田】それはそうですよ。我々が魚釣島上陸にこだわるのは、3月23日に魚釣島に上陸した中国人によって灯台がどのような損傷を受けているかを確認することであり、もし損傷を受けていたら灯台を修理する必要がありますからね。

【加藤】そうです。だから4月7日に石垣島に入ったんですがこの日は出港を阻止されたので再度交渉をして船を出港することができたんですけど、天候悪化のために魚釣島を目前して上陸を断念しました。

【司会】そうすると尖閣諸島の灯台を国家委譲する話はいつごろからあったんですか。

【加藤】松尾会長のところに灯台を国有化したいという最初の話があったのは平成16年4月上旬だったと思います。

【司会】その後に色々な動きがあったようですが、灯台を国が管理したいと正式な話しがあったのはこの年の7月ごろですね。

【大久保】私が記憶してるのは7月30日だったと思います。

 それと灯台の国家委譲の話しがどこにも出ていないのに、8月1日あたりの地方紙に灯台国有化という記事が灯台の写真入りで出たんです。

 そのことで総本部にもいろいろ問い合わせがありましたが、当時はそこまで話は進んでいないときですからビックリしました。

 そこでその記事の発信源を調べたら共同通信沖縄支局の記者だということがわかりましたので電話で話をしたら、その記事は噂で書いたと答えていましたが、そういうことをリークした人間がいたんでしょうね。

【司会】今の話が、正式に灯台を国家委譲することの始まりですね。

【加藤】そうです。政府が松尾会長に正式に話を持ってきたのはこのころだと思います。

【司会】それと政府はこの年に尖閣諸島の灯台を国有化することを決めたんですか。

【亀田】そうではないようです。日本青年社のある役員が平成17年に入って直ぐですが、毎日新聞の記者と会ったとき、その記者が平成14年ごろ永田町で日本青年社の灯台が国有化されるという話が出ていたのでマスコミは注視していたが、その話しが消えてしまったことがあると話していたことを聞きましたから、政府はそのころから灯台国家委譲の話を進めていたんではないですか。

【司会】そういう動きはあったんですね。その後はどうなんですか。

【亀田】会長は灯台が国有化されることを喜びましたよ。今まで何回も灯台許可申請を出してきたのにいつも時期尚早ということで許可されなかった灯台が、正式に海図に載って国有財産になるんですから、これは我々が取り組んできた尖閣問題の大きな成果でしょう。

 それともう一つ大事なことがあるんです。松尾会長はこの灯台を国家委譲するにあたって自分だけの判断ではなく、日本青年社全員に意向を話して理解を促し、更には尖閣諸島灯台に携わった関係者の理解を得ることに専念しました。

【司会】それは大変な作業ですね。そして翌年の平成17年1月7日に内閣府から連絡があったんじゃないですか。

【加藤】内閣官房から灯台の国家委譲を急いで欲しいと連絡があったんですが、会長は日本青年社全員の意思と関係者の最終同意を得て回答すると答えました。その後も再々の連絡があるので2月3日に内閣府に行くこことになったんです。

【司会】大きな前進ですね。

【加藤】そうです。それで2月3日に会長はうちの弁護士と内閣府を訪問して担当職員、担当職員といっても結構位の高い人たちですけど、それで灯台の国家委譲を決定しました。

【司会】内閣府ではどのような話があったんですか。

【加藤】昨年、内閣府は灯台を国有化することを決定して政府関係機関(国交省・財務省・外務省)などの了承を得ていたが、国家に委譲する作業の途中で問題が生じたこととマスコミ(新聞など)が灯台の国家委譲に関する報道をしてしまったので、関係官庁には灯台の国有化はなくなったといってあるから、本件は一切外部に漏らすことはできない。

 日本青年社から灯台を譲り受けたあとの国の措置は当初の方針と何も変わってない。

 灯台の国家委譲が実現するまで私たち3人が不退転の覚悟で作業を進めるから、日本青年社も一切外部に他言しないで欲しいといってましたね。

【司会】色々な手続きがあるんですね。

【加藤】それから灯台が国有化されたときの政府発表についての話がありました。

【司会】
どのような

【加藤】大まかに言うとですね。灯台が国家委譲が終ると海上保安庁が世界全ての船舶に航行警報を発信する。この航行警報の発信が灯台が国有化された政府発表になると同時に海上保安庁がインターネットで公開するということでした。それと国家委譲後のことについては、国家委譲から約1週間で官報に掲載する。2週間後に海図に載る。3週間後に新しい海図が発売されるということでした。

【司会】結構細かい話をしたんですね。

【加藤】その後の2月7日に内閣官房副官房長官から2月9日か14日か15日に石垣島に行くので、そのときは灯台の名義人に内容を話しておいて欲しいとの連絡がありましたが、最終的に内閣府が、2月9日に行くということになりました。

 そして2月9日に、内閣官房の担当者が灯台の名義人宅を訪問して、灯台を国に譲渡すための押印をしたんです。

 それと、もう1つあるんですが、内閣官房は灯台の国家委譲手続きが終ったら午時に航行警報の発信とHPで公開するのでそれまでは他言しないことになっていたんですけど、午前11時のNHKニュースで灯台国家委譲のことが報道されました。おかしなと思ってこの日に石垣島入りしていた富施さんに連絡すると現地は朝からマスコミが集中していて、内閣府の担当者が行く先々で取材攻勢にあっているが担当者は無言のままで粛々と作業を進めている。との返事がありました。

【司会】なぜそのようなことになったんですか。

【亀田】それが我々にもわからないからテレビを見て驚いたんです。
 その原因は政治家が「午後に尖閣諸島魚釣島灯台が国家委譲される」とマスコミにリークしたようでした。

【司会】それで国家委譲はどうなったんですか。

【亀田】はい、午後3時になったので急いでインターネットを開いたら公開されていました。
今日はそのときの書類をもってきましたので参考にしてください。

内容は、番号05-0276
発表日時 2005年02月19日 15時
尖閣諸島 魚釣島
灯台位置 22-44-3-N 123-27-37E
閃光度 5秒に一閃 5海里

【司会】これで灯台は正式に日本国灯台になりましたがその後はどうなりましたか。



灯台国家委譲後の日本青年社の対応

【加藤】灯台を国家委譲した翌日の2月10日に日本青年社総本部で記者会見を開きました。この記者会見には大手メディアは殆ど来ましたが、マスコミは報道しないんですね。

 それと政府も東京の政治団体が灯台を放棄したから政府が管理するというような全く事実と違うことを発表したんです。あの時の官房長官は細田さんでしたが多分政府がマスコミにかん口令を引いたんじゃないですかね。

【司会】
おかしな話ですね。

【亀田】そうです。ですから日本青年社が灯台を建設して守り通したことを知っている人は怒ってましたね。

【司会】そうでしょうね。それと2月14日にワシントンポストが来て、22日にニューヨークタイムズが来ましたね。

【亀田】ニューヨークタイムズとワシントンポストは日本青年社の実名を出して大きく報道しましたが、日本の政府とマスコミの扱いには首を傾けてましたね。

【司会】色々と話を聞いていると、尖閣諸島の灯台が国有灯台になるということは、いかに凄いことだということがわかりますね。

【亀田】それだけではないんですよ。3月3日に、超党派で作る「領土議連」の招請を受けて日本青年社の役員が、国会で尖閣諸島問題を30分間説明したんです。

【司会】そうですか。その後は。

【大久保】尖閣諸島の灯台は確かに我々が建設しました。そして27年にわたる保守点検と領土の実効支配を続けてきましたが、その灯台が国有財産となって国が管理するようになったのですから、その後われわれは灯台のことには口出ししていませんが、灯台を国家委譲してから2年経った平成19年に、会長と執行部役員が石垣島と与那国島を表敬訪問して27年間の協力に感謝の意を表してきました。



平成22年再決起と政府の対応

【司会】そうですか。それと平成22年9月に中国漁船が領海侵犯して海保の巡視船に衝突する事件がありましたね。

【加藤】あの時、我々は200人で尖閣諸島に向うことを計画しました。そして東シナ海から日本国民にですね。主権国家にとって領土がいかに重要な要素であるかということを訴えることを考えて石垣島の海保や漁協と連絡をとっていました。

【大久保】そうでしたね。石垣島の漁協も協力的でしたし、我々と一緒に船に乗るという漁師も多くいたんです。海保も協力的でしたから航空会社の搭乗手続きも済ませていたんですが、突然政府から圧力がかかったんです。それでいけなくなったんです。

 そうしたらその3日後に中国の船長を釈放してしまったんです。

【司会】そのことについては総本部のインターネットにも沢山の激励メールが届いていたんですが、日本青年社の出港に圧力を掛けた政府に怒りをぶつけるメールに変わりましたね。

【篠塚】でもその年の12月に与那国支局の新嵩支局長が尖閣諸島に向ったんですが、魚釣島海域で海保の臨検を受けるということがありました。

【司会】その辺のところを話してください。

【篠塚】このことは総本部にいる人が、新嵩さんとの連絡を聞いています。新嵩さんは、与那国の住民として中国の領海侵犯を許すことができず漁船の船長と2人で尖閣に向かったんですが、与那国から150キロも離れた魚釣島に着くまで海保の巡視船と一度も会わなかったといってますね。

【司会】海保は海上警備をしていないんですか。

【篠塚】全ての巡視船が魚釣島の北側に集結しているために南側には1隻もいなかったんですね。ですから夜中に出港して明け方には魚釣島に着いたんですが、それを海保の軽飛行機が発見したんです。

 でも尖閣諸島問題を熟知している新嵩さんの目的は最初から魚釣島上陸ではなく、東シナ海で日本の領有権を主張することにあったんです。ですから漁船に日本の領有権を訴える横断幕を取り付けていたんですが、それを航行往来違反として取り締まったんですね。

【司会】日本の領土に日本人が上陸することができない。これは由々しき問題ですね。

【杉山】色々と話してきましたが尖閣諸島は日本固有の領土であることは歴史的にも国際法に照らし合わせても明らかなんですからに政府は毅然として態度で対中外交を進めてもらいたいですね。

【司会】最後ですが日本青年社の活動は尖閣諸島だけでなく北方領土もあるわけですが北方領土問題は尖閣諸島問題と違った形の取り組みを続けています。

 前々回の座談会では北方領土返還に向けたロシア訪問を語ってもらいましたが、こちらの運動については。

【杉山】そうですね。我々は平成21年3月にロシアを訪問しました。このときはプーチン政権でしたがその後メドベージェフ政権に変わりましたね。日本も同年9月に民主党政権に変わったわけですが、北方領土返還交渉を進める上の日本青年社とロシアの交渉窓口に変化はありません。ですから北方領土問題は腰を落ち着けて前に進める予定でいます。

【司会】ありがとうございました。

 


続く