日本の農業は滅びる 

 

平成13年3月26日
日本青年社 群馬県本部 須 賀 和 男

 私は農家の生まれで、ずっと農作業を手伝いながら育ったことから、ふつうの人よりは農業に対する思い入れが強く、かくあるべしということを常日頃から考えていた。

 最も基本的な違和感を覚えたのは、農業が自然とともにあるということを忘れて、ひたすら経済効率さえあげればよいという論の展開であった。年間降雨量が600ミリの広大な農地と1800ミリの狭小な農地とでは農法も作物も違って当然である。もちろん、自然条件の違いはあってもお互いに見習うべきことは多くあるとしても、やはりどこで作っても同じ鉄鋼ができる工業生産とは自ずと違ってくる。農業とはそういうものなのだ。

 要は、自然を損ねることなく、自然の恵みを最大限に作り出す農業ということであり、世界中の農民が昔から腐心してきたことを現在風に素直に言葉にしただけである。根底にあったのは、我々の先祖が営々と築き上げてきた我が国農業農法にも合理的理論がある。

 純粋な生産とは、無から有を生じること…すなわち太陽エネルギーによって植物が大きくなり、動物が大きくなること以外にないのではなかろうか。工業は物質の形を変えているだけであり、第3次産業はモノとか情報を横から横へ流しているだけの話になる。つまり、本来の生産は何もしていないのだ。

  こうした考えは、欧米社会にも根強く存在し商行為にはいつも一抹の後めたさが標う。

  あのビジネス優先のアメリカでも、ユダヤ人が経営者で株式も公開していない穀物商社以外には商社が生まれてこない理由は、まさにこの極めて当たり前のキリスト教的倫理観にあるような気がする。

  自分が作ったものを売り込むのは正々堂々とできても、他人の作ったものを扱ってうわ前をはねることを潔しとしないのだ。従って欧米でも農業補助金が財政を圧迫していることは問題視されているが日本の都会やマスコミは都会サイドの言い分である。

 我々の税金で農民を養っている。といった尊大な論調は、欧米社会ではついぞ聞いたことがない。今の国の農業政策は江戸時代と変わっていない。農民は「生かさず、殺さず」の政策である。

  国の政策は外国の農産物をどんどん輸入して日本の農家を苦しめている。今では輸入野菜は80%だ。物理的な関係をみれば、都会が地方に養ってもらっていることは明らかだ。

 しかし、農業については、もう1つ、土地生産性のことを考えなければならず、むしろ重要なのは限られた土地をいかに有効活用して永続的に生産を続けていくかということである。
 
 私たち日本青年社は、21世紀を迎えた今年、スローガンに、「自然と共生 環境と調和」を掲げ、環境破壊防止運動をおこなっているが。我々農家も農業は環境を守っていると言っても過言ではない。そうした1面は、特に棚田による水田農家にはあてはまるとしても、農業は自然を人間の食べ物の生産に都合のよい田畑に変えてしまっている点では、大きな環境破壊にほかならない。その意味では、森林を切り拓き、防風林も残さず、1面小麦畑にしてしまったアメリカ中西部は度を越している。その反対に、平野がほとんどなく、国土全体の15%あまりの農地にしがみつきながら、必死で多くの作物を作ろうとしている我が国農業のほうがずっと理に適っていることになる。
 
 私たち農家もこれからは「環境保全型農業」に取り組んで行かなければと考えている。日本型農業を1口で言えば、日本の気候、風土に合った農業ということで、古くからいわれている言葉を借りれば、「適地適作」であり「適地適農法」ということになる。
 
 そして、日本の農業を支える日本型農業技術もまた、日本の自然に合ったものでなければならない。その真髄は、環境保全型のものであり「持続性」を備えたものでなければならない。
しかし、折からの農業不況もあり、まして、水代、肥料代、農薬代とコストが90〜95%もかかる農業は経営的にも成り立たなくなりつつあるのが現状である。