風 たより
〜 第 7 回 〜

平成21年10月29日


花々は、強い風を一身に受けて、辛くとも、笑顔を忘れずに、

    自身の心をかくし、涙をかくし、忘れることなく、記憶に留める…。

風が吹き 風が荒んでも、必ずその日がくることを、心のどこかで夢見て。




天皇と明治憲法

 正論7月号の特集記事で、5月3日にNHKが『天皇と憲法』という番組を放映したことを知りました。
 それによると、番組では、明治憲法の第一条と第四条、第十一条などを取り上げて、これらの天皇条項の矛盾や欠陥が、日本を破滅に導いた元凶であるかのように映し出していたようです。しかしそれは正しい見方ではありません。
 天皇条項が戦前のテロや軍部の台頭を許したわけではないし、日本を戦争に導いたわけでもないのです。ましてや天皇条項に矛盾や欠陥があったわけではありません。
 たとえば、番組ではこの第一条『大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス』を、恰も天皇が日本を支配する最高権力者であるかのように映し出していたようですが、抑(そもそも)それが間違っているのです。


 明治憲法第一条は、天皇の政治的役割を想定したものではありません。この条文は、わが国日本の、古来固有不変の国体を端的に表現したもので、天皇が天皇として国民の上に立たれてきた歴史の事実と、その正当性を明文化したものなのです。まったく権力的観念とは関係がありません。
 番組製作者は、この条文の『統治』の語を、おそらく国家統治の権力とでも解しているのでしょうが、これは天皇の統治理念を表す『シラス』の古語を漢字化したもので、権力を意味するものではないのです。
 古語には『ウシハク』という、領地領民を私的に配する権力的作用の語がありますが、『シラス』はこの『ウシハク』と対蹠的な関係で、これは天皇統治の公共性と天皇統治の本質が、「民族を精神的に収攬することである」ということを意味する語なのです。
 従って『統治』とは、これを国家統治の権力と解することは誤りで、この条文を「天皇を絶対視することにつながる」という、番組製作者の解釈もまた間違っているのです。尚『統治』の語源が『シラス』であることは、明治憲法の起草者、伊藤博文が『憲法義解』の中で「『シラス』トワ即チ統治ノ義ニ外ナラズ」と明示しているところからも明らかであるといえるでしょう。


 結局この番組が伝えたかったことは、主権を挟んで、天皇と国民は対立関係にあるのだということを言いたかったのでしょうか。民主主義を守るためには君主主義を否定すべきだということもいいたかったのかも知れません。
 天皇条項という君主主義の原理を諸悪の根源であるかのように映し出していたのも、主権在民という民主主義の原理こそが善であるということを強調したかったからでしょう。
 番組の最後に、東大教授の御厨貴に「問題は天皇条項だ。天皇という存在を主権在民の立場からどう考えるのか本格的に議論してみることが必要だ」などと言わせて見せたところにも、そうした番組製作の狙いが透けて見えるのではありませんか。


 しかし、主権の争奪などという君民闘争は欧米各国の話であって、すくなくとも日本では天皇と国民が直接主権の奪いあいをしたことも、天皇の主権が国民を圧迫したこともないのです。むしろ主権君主制を目指された明治天皇は、五箇条御誓文の中で『万機公論に決すべし』と、自ら民主主義の発展を奨励なされているくらいなのです。
 従って、こと日本においては、天皇と国民の関係や、君主主義と民主主義との関係を、主権という視点から対立関係に置いて捉えることは間違っているのです。ましてや今、本格的な議論が必要であるというのであれば、それを問われているのは民主主義の方ではありませんか。行き過ぎた民主主義の理念こそが、今日の悲劇的な金融危機を引き起こしたのでしょう。


 証券化商品などという玄人にだって見分けのつかぬ詐欺まがいの商法を可能にしたのは、自由を柱とする市場原理主義という民主主義の理念が、国家の規制を排除したからではありませんか。金融危機から学習すべきは、『自由』といえども行き過ぎてしまえば人類を幸福にするものではない。何事もバランス感覚が大事であるということでしょう。


 NHKは何を寝ボケているのでしょうか。今日見直すべきは民主主義を根本原理としてきた戦後体制なのです。主権在民の立場から天皇を批判するのではなくて、日本人の自覚に立って君主主義を回帰してみることです。
 その上で、君主主義と民主主義の調和した社会、即ち君民同治の体制を築いていくべきです。それが歴史に立って未来を展望する答えなのですから。(美濃の臥龍)

 

(8)へ続く