「倫理・道徳・品格の向上」 特別寄稿
医学博士 大僧正 池 口 惠 觀

平成25年7月26日


 山田方谷という人物をご存知でしょうか。幕末から明治初期にかけて活躍した、備中松山藩の陽明学者です。備中松山藩というのは、現在の高梁市周辺を治めた藩です。


 私が山田方谷を知ったのは、1月末に行われた衆議院本会議において、日本維新の会の代表質問に立った平沼赳夫さんが、質問の冒頭部分で、江戸末期に財政難に陥っていた備中松山藩の藩政改革を断行した山田方谷を、地元・岡山県の尊敬すべき先人として取り上げられたからであります。
 山田方谷に関しては、四代前のご先祖が山田方谷と親交があったという、元吉備国際大学教授の矢吹邦彦さんが、『炎の陽明学者−山田方谷伝』(明徳出版社)という労作を出しておられます。


 山田方谷はもともと陽明学者で、備中松山藩の世継ぎ・板倉勝静に帝王学を授ける侍講でした。それが、勝静が藩主になると同時に元締役に任ぜられ、藩財政改革の全権を担うことになったのです。ちなみに板倉勝静は徳川慶喜が十五代将軍だったときの主席老中を務めた人です。


 山田方谷は半ば破綻していた藩財政を立て直すため、帳簿の公開、節約令の実施、賄賂の禁止、産業振興、藩札の改新、文武の奨励、人材の登用、目安箱の設置、屯田制による農地開発等々、矢継ぎ早に改革を断行し、十万両の借財をわずか八年で完済しただけでなく、十万両の蓄財を行ったのであります。


 さらに、特質に値するのは、武士に代わる兵力を養成するため、若手藩士や農民から志願者を募って、イギリス式軍隊である農兵隊を組織したことです。一般的には、高杉晋作が組織した長州の奇兵隊が日本の近代的軍隊の嚆矢と言われていますが、山田方谷は奇兵隊に先駆けて農兵隊を組織したのであり、むしろ奇兵隊がそれを参考にしたとも言われています。


 付け加えておけば、幕末から明治維新の際の戊辰戦争で、官軍に激しく抵抗した越後長岡藩の河合継之助は、一時期、備中松山藩に遊学し、内弟子となって山田方谷に師事しています。武装中立を目指したと言われる河合継之助が育成した長岡藩の精鋭軍は、もしかしたら備中松山藩の農兵隊を念頭に置いて組織されていたのかも知れません。


 山田方谷が厳しい藩財政をやり遂げることができたのは、「理財論」という経済論と、「擬対策」という政治論を実践したからであります。「理財論」とは、古代中国・漢の時代の儒者、董仲舒の言葉、「義を明らかにして利を計らず」をモットーに経済政策を実践することです。まだ「擬対策」とは、天下の士風が衰退し、賄賂が公然と行われたり、行き過ぎた贅沢がまかり通っていることが、財政逼迫の要因であり、これを改めなければならないという考え方です。こうした藩政改革の理念の背後に、山田方谷がその道を追究してきた陽明学があったことは言うまでもありません。


 陽明学の淵源は、十二世紀の中国・南宋の思想家の陸象山にさかのぼります。象山は宇宙の真理をつかもうと努力した人で、宇宙と人間の心が一体であることを見抜き、こう説いています。


 「宇宙はすなわちこれ吾が心、吾が心はすなわち宇宙、千万世の前、聖人出づるあるも、この心に同じく、この理に同じきなり。千万世の後、聖人出づるあるも、この心に同じく、この理に同じきなり」


 象山は、それまでの宇宙の本体は理であるという考え方を一歩進め、理は吾が心の理でもあるから、宇宙の本体は吾が心に他ならないと主張したのです。そして、宇宙の理とはすなわち吾が心に備わっている道徳心だと言っています。この象山の考え方は、弘法大師空海の説かれた「全ての生命は仏さまの子であり、生きたまま仏さまになることができる」という即身成仏の考え方に通じます。


 この宇宙の理が人間の心と通底すると説く象山の学問は、十六世紀の明の学者・王陽明によって心の学「心学」と命名され、引き継がれました。王陽明が打ち立てた「心すなわち理」の考え方を基本とする陽明学は、江戸時代の儒者たちにも少なからぬ影響を及ぼしたのであります。


 「日本陽明学の祖」とされているには、後に近江聖人と呼ばれた中江藤樹です。藤樹が琵琶湖畔の農村に生まれたのは、江戸幕府が開かれた5年後の1608年です。当時はまだ関が原の戦いの余燼がさめやらぬ頃で、世の中は騒然としていましたが、一方では新しい社会秩序の構築に向けた歩みが始まっていました。そんな社会風潮の中で、新たな武士のあり方を普遍的な心理の上に確立しようとしたのが、中江藤樹でした。


 若き日の藤樹は、朱子学の教えを徹底的に実践しようとする理想主義者でした。そのために、大義名分を重んじた幕府のブレーン・林羅山らの路線を批判し、脱藩します。自由の身となった藤樹は、朱子学が尊重していた『大学』『中庸』『論語』『孟子』のいわゆる「四書」に加えて、『易経』『書経』『詩経』『春秋』『礼記』のいわゆる「五経」を徹底的に研究し、聖人の教えや規範に従うだけでは、生き生きとした人間性を失い、良好な人間関係を築けないことに気づき、普遍的な真理すなわち宇宙の真理に基づく生きた方を、どう調和させるかを探究します。


 そこで藤樹は自己の主体性、人間の心に関心を深め、『心すなわち理』という陽明学と出会って、宇宙の真理と人間の心が同じであることを確信したのです。


 中江藤樹は、「人間にはそれぞれの分に応じた位があり、その職分を尽くし、自己の人間としての完成を図り、社会秩序を確立することこそ、人間一生涯の道に実践だ」と言い、「その道は広大であるから、われわれも到達することができる。太陽や月の光は広大だから誰でも利用することができるのと同じだ。広大であるから、貴賤、老若男女の別なく、本当の心のある人ならば例外なく守り行うことができる道なのだ。それは、天にあっては天の道となり、地にあっては地の道となり、人にあっては人の道となるのだ」と説いています。


 天の道すなわち人の道だとしたところに、藤樹の陽明学者としての真骨頂があります。藤樹はまた、為政者が第一に心得なければならないのは、「謙の一字」だと言い、「自分の位が高いことにおごり自慢する魔心の根を断ち捨て、人の踏み行うべき道を示す本心を明らかにし、かりそめにも人を軽蔑せず、慈悲深く万民に思いをかけ、士にも礼を失わず、家老や側近の忠告をよく聞き入れ、自分の知恵をひけらかさないこと」が「謙徳」だと説いています。


 藤樹は続けて、謙徳は例えば海であり、万民は例えば水である。すべての水が低い海に流れ集まるように、為政者が謙徳を守れば、万民はみな心服して従い、国家の天下も治めようと意識しなくとも、自然に治まるものだ」と主張しています。


 いずれにしても、中江藤樹は普遍的心理の上に新しい時代の武士道を確立しようと奮闘し、弟子の熊沢番山らを通じて、その後の武士のあり方に大きな影響を及ぼしたのです。


 江戸時代初期に中江藤樹が打ち立てた日本の陽明学を、幕末から明治初期にかけて、真摯に実践していたのが山田方谷だったのです。矢吹邦彦さんは、「陽明学は、葉隠れの武士道と深く結びついて、経世済民の実践哲学として日本の土壌に根づいた」と指摘されています。


 そして、江戸末期から明治にかけて壮絶な最期を遂げた、大塩平八郎、吉田松陰、河合縦之助、西郷隆盛らも陽明学の信奉者であり、戦前から戦後にかけて政治家・経済人に深い影響を与えた安岡正篤さんも陽明学者だった、ということであります。この人たちは真剣に国家・国民の行く末を案じながら、逝かれたのであります。私たちは今、この人たちに日本の現状を誇ることが果たしてできるのでしょうか。


 平沼赳夫さんが、衆議院本会議の代表質問で、故郷の偉大なる改革者・山田方谷を取り上げられたのは、ただ単に財政再建のお手本としてだけでなく、山田方谷が体現していた陽明学のような、経世済民の政治に直結する東洋の叡智を、平成日本の政治は取り戻さなければならないという、深いメッセージが込められていたと、私は感じたのであります。 

合掌