「倫理・道徳・品格の向上」 特別寄稿
医学博士 大僧正 池 口 惠 觀

平成22年6月9日

今回の「倫理・道徳・品格の向上」 特別寄稿は、今回と、次回にわたり、医学博士であり大僧正池 口 惠 觀 師の「求める心」を掲載致します。

志を抱く心(1)


 私たちは、日々何かを求めて生きています。しかし、その「求める心」を間違えると生きていく道に迷ってしまいます。

 生きとし生けるものは、みな「求める心」で成長し進化してきたのです。

 お母さんの胎内から、「産まれよう!」と思って、母子ともに味わう産みの苦しみを経て、この世にやってきた生命は息を吸いたいと求め、お乳が欲しいと求め、眠りたい、動きたい、甘えたいと求めます。生きることは求めることなのです。しかし、生命は他の生命とつながり、関わりながら生きていますから、自分だけの欲求を通そうとするとトラブルになります。他の生命とともに生きていながら、我が身が求めるものをどのように実現するのか、そこから生きる知恵が生まれてきます。

 他を生かし、自らを生かすことができるようになれば、この世に生まれてきた喜びは大きなものになることでしょう。行き着くところは、自分も他人もみな同じ満ちた心の世界です。その「さとり」の世界をじつは誰もが求めているのです。私たちは何か望むとき、まず心からスタートします。

 官職を得たいと思えば、まず官職を求める心を起こし、その官職に就こうとする行動を起こすだろう。財宝を得たいと思えば、まずは財宝を欲する心を起こし、財物を得ようとするために工夫をするだろう。善にせよ、悪にせよ、何かの行為を成そうとすれば、まずそうしたいという心を起こしてその思いを行動に移すことになります。だからこれと同じように、さとりを求めようとする者は、まずさとりを求めようとする心を起こし、さとりの道を歩きはじめるということになります。そしていつの時代も、官吏になることが権力を目指す人の目標でした。財産を手にしたい欲は、いつの時代も変わらないのです。

 欲とは求める心から始まるものなのです。当たり前のことですが、思うことを実行に移すことがなかなかむずかしいのです。考えているだけでは何もないのと同じことだと思います。実践してようやく目標への道が開けますが、志を抱く心が実践する身体と一体になるところから、全てがはじまります。


■ 後 藤 新 平


 思えば、事を成し遂げた人たちは、みな志を立て、その志に向かって一心にはたらいたのでした。幕末から明治、日本の大変革の時代に活躍した人々の努力は、現代人にはとても及ばないと思うものがあります。それまで経験したことのない新しい文明を短い間で会得して、その知識を広く社会のために還元した人々もまた「求める心」から一歩を踏み出しています。

 たとえば、後藤新平という政治家がいました。明治から昭和初期に活躍しました。政治家というより偉大な官僚といったほうがいいのかもしれません。主な公職を並べてみましょう。台湾民政長官、満鉄総裁、鉄道院総裁、東京市長、帝都復興院総裁、東京放送局総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣。これらは四十二歳からのものです。どれも「飾り物」ではなく率先してリーダーシップを発揮しました。とりわけ関東大震災復興の東京の都市計画は、現代につながる骨格を造りました。

 「後藤の大風呂敷」と語り継がれているのが、大正十二(一九二三)年九月一日に起きた震災の復興計画でした。この日、山本権兵衛内閣は組閣の最中に大地震に見舞われたのです。内務大臣に就任した後藤はただちに地震対策に着手します。救援はもとより、間もなく始まったのが首都再生の復興でした。

 「植民地」台湾や満州ですでに都市造りを手掛けていた後藤は、大規模な震災復興を計画しました。皇居を中心に、環一から環八まで幹線道路を造るという機能的な都市計画は、江戸の名残りの町のイメージからは空前絶後と思える規模でした。これは、財政不足や理解不足のために挫折したのですが、ただ一つ、幅四十四メートルの昭和通りだけが、完成しました。当時は、こんな広い道路をつくって後藤は何を考えているのかと批判されましたが、どうしていまの交通量では足りないくらいになっています。

 後藤新平は、安政四(一八五七)年六月四日、陸中・塩釜村(現・水沢市)に生まれました。生家は学識高い武家でしたが、まもなく維新を迎えます。藩では藩士に対して通告しました。北海道開拓に移住すれば武士の名残を残す「士族」となれるが、故郷にとどまれば農民として「平民」となるというものでした。後藤の生家は帰農を選びました。「生まれながらの自尊心を剥奪された」と、後藤は七十歳近くなって回想しています。武士の誇りを持って生きようと、幼いながらに我が身を律していた少年にとって、よりどころを失う衝撃でした。しかし、新平少年はこの屈辱をバネに新しい時代を跳躍しながら、勉強して医師から官僚へと進んでいきました。

 幼いときから俊才だった後藤は、苦労の末に、十八歳で須賀川医学校に入学、二十一歳で医師となりました。公衆衛生に着目し、やがて内務省衛生局に入ります。衛生環境を整えるために働きました。

 誇りをもって生きたい。世のためになる人間になりたいと、新平少年は求めて実行に移していったのです。現在のように教育制度も始まったばかりで、教えるほうも手探りの状態、教えられるほうも基礎知識もないのが文明開化の日本でした。しかし、明治人はその悪条件を克服して、世界に肩を並べるまでに成長します。

 後藤新平はやがてさらに大きな夢を抱きます。夢は「求める心」の設計図です。それは、ロシアや中国と手を結んでの平和構築でした。シベリア出兵積極論を唱えながら、しかし革命後のロシアとも外交を模索し続けたのです。

 鉄道、街、道路、放送…。後藤が目指したのは二十世紀の人々の夢でもありました。少年の心を持っていつも全力で、情熱を傾けて、ひたむきに生きた後藤は、ボーイスカウトの世話をよくしました。自宅の庭で、少年たちに「自治三訣」と名付けた人生訓を説いていたといいます。

「 人のおせわにならぬよう  ひとに御世話をするよう  そしてむくいをもとめぬよう 」
「 妄想するよりは活動せよ。 疑惑するよりは活動せよ。 話説するよりは活動せよ 」(『処世訓』)

  とも遺しています。


■ 高 峰 譲 吉

 長い鎖国を経て開国した日本ですが、またたく間に欧米に飛び出して評価される実績を残した人たちもいます。

 高峰譲吉は日本科学の先駆者として知られています。世界に名を残した主な業績は、二つあります。一つは酵素の発見で開発した胃腸薬「タカジアスターゼ」で、日本人にも馴染みが深いこの薬は全世界で売れました。

 もう一つは、アドレナリンの発見です。これは初めてのホルモン発見とされています。止血剤として現在も使われている重要な発見でありながら、高峰は「盗作」の疑いをかけられました。米国人学者エイベルが、高峰を批判して流布した冤罪でしたが、二十世紀の化学や薬学の競争がどれほど熾烈なものだったかをうかがわせるエピソードでもあります。いずれも米国で高峰が独自に作った研究開発会社での発見でした。

 苦闘の末とはいえ、この発見と開発によって高峰は巨富を得ました。高峰はその私財を投じて日米の民間外交にも尽くしていたのでした。特に、日露戦争では日本に対するバッシングを排除するために米国を回った金子堅太郎貴族院議員を全面的にバックアップしています。金子は全米で日本の正当性を訴え、ハーバード大を卒業した人脈を使って、セオドア・ルーズベルト大統領を動かし、新聞も活用して米国世論は次第に親日に傾いていきました。米大統領も積極的に講和会議に乗り出したのでした。

 高峰譲吉は、安政元年(一八五四)年に、金沢の医者の息子に生まれました。満十歳で長崎に留学し、維新まもない大阪医学校で学ぶうちに、化学への道を志しました。

 工部大学校(東大工学部)を経て、英国に留学、帰国して万博のために米国へ派遣されました。そこで出会ったキャロラインと結婚します。

 やがて、夫妻は米国へ移ったのでした。在米のまま、高峰は理研創設を提言し、製薬会社「三共」の社長となる。帝国学士院会員にも選ばれた。そして、望郷の念を持ちつつ、大正十一(一九二九)年、米国で病没しました。

 「博士がなされた、東西国民の健康に対する科学的貢献は、日本の外交における推奨すべき成果」だと、『ニューヨーク・タイムス』は社説でサムライ化学者の死を悼みました。


■ 安田善次郎

 財力といえば、明治の「銀行王」と呼ばれた安田善次郎がいます。

 安田善次郎は、一八三八(天保九)年、富山藩の半農半士の家に生まれました。早朝から父と畑に出て、昼は寺子屋に通う日々を送りました。

 十一歳になると、野菜の行商と、達筆だったことを買われて写本の内職を始めました。藩の重役が豪商に頭を下げている姿を見て、貨幣経済の時代がやってきていることを感じて商人を志しました。蓄えた金で江戸に出て両替商になりました。

 嘘をつかない。収入不相応の生活をしない。純財産の十分の一以上の家屋を求めない。これが、店を始めた安田の「家訓」です。骨身を惜しまずに働き、金銀貨の鑑別眼に定評があった安田の「信用」こそ、安田の経営理念であり、人生哲学の基本でした。

 明治に入って、安田は国立第三銀行、安田銀行を設立、日本銀行創立にも参画。同族の「保善社」を設立して安田銀行の持株会社とし、明治末年には個人で所有する銀行の数はダントツの「銀行王」になるのです。生涯にわたってストイックな生活を実践しますが、日々「克己心」との闘いだとも語っていたそうです。蓄えた私財を、安田は社会にずいぶん還元しました。なるべく目立たない形で、という意向だったので、世に出ることは少なかったそうです。東京の日比谷公園の一角にある市政会館、東大安田講堂は、彼の寄付によって建てられたものです。


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