良書紹介 近日発売
世界の中で輝かしい歴史を残す日本
ー誇り高き日本人の姿を復元するー
「日本人でよかった」

斎藤信二先生のご挨拶を兼ねた本の紹介

前号に引き続き、良書紹介で取り上げた「日本人で良かった」の内容をもとに、本書のさらに詳しい内容を掲載します。

 

日本が国家として存在していることの有り難さ

・松井石根大将建立の興亜観音と七士の碑

本日はお招き戴きありがとうございます。

 私は、一週間前の二月一日、熱海にあります興亜観音(熱海市伊豆山)に行って参りました。「興亜観音で本当の歴史を学ぶ会」という会から講師依頼があり、私でもいいのかなと思いながらお引き受けして、「ひとりの日本人として、今、思っていること」と題しましてお話しをさせていただきました。

 十数年ぶりに興亜観音に参りまして、自分の使命をまた新たに確信することができました。そのことについては、後で触れますが、興亜観音についてはもう皆様はご存知だと思いますけれども、松井石根大将が昭和十五年に建立されたものです。

国家のための戦いといえども、自らの命を賭して大義のために戦った、シナ事変の日本兵と中国兵の御霊を弔い、供養するために発願されたものです。建立に当たって松井大将は『興亜観音縁起』に「……彼我(ひが)の戦血に染みたる江南地方各戦場の土を採り……観音菩薩の像を建立し、この功徳を以て永く怨親平等(おんしんびょうどう)に回向し……東亜の大光明を仰がん事を祈る」と書かれています。

 怨親平等とは、仏教の言葉で「怨憎(おんぞう)する人々に対しても、親愛する人々に対しても、差別することなく、慈悲愛護の念をもって接する」という意味だそうですが、松井大将はこの心を以て戦死した日本人の御霊だけではなくシナ兵の御霊も平等にお祀りされたということです。ここに私は、日本人の心を感じます。

 松井大将は、アジア民族の自主独立のために大亜細亜協会を設立し、日中間の和平に力を尽されたわけですが、その思いが興亜観音にこめられているということです。

 この興亜観音には、観音像の他に、「大東亜戦争殉国七士の碑」「大東亜戦争殉国刑死一〇六八霊位供養碑」があります。「七士の碑」と言えば、皆様は毎年四月二十九日、三ヶ根山で墓前祭を斎行しておられますから、「七士の碑」とは何かはすぐにお分りと思います。

 東京裁判で大東亜戦争の戦争責任の罪を押しつけられて、昭和二十三年十二月二十三日(現上皇陛下のご誕生日)に絞首刑となられた七人の方々を祀る碑です。そのご遺骨を興亜観音の伊丹住職が縁あってお預かり、元総理大臣吉田茂の揮毫で「七士の碑」が建立されました。その後、昭和三十五年に三ヶ根山に墓碑が建立されたわけです。

     

・日本人でありながら日本国民意識がない

 こうした歴史を、知らない日本人が多くなっています。ですから「七士の碑」とか「東京裁判」とか「大東亜戦争」とか言われても、何のことか、分からない。まして、戦後教育で日本人が、占領軍によって何をされてきたのかは、まるで知らない。当然のごとく、自虐史観や贖罪意識なんて言葉も知らない。そういう人達は若者だけではありません。発言などを聞いていると、そうとしか思えない国会議員もいます。

 知らないだけなら、まだいいです。戦後作られた嘘(うそ)の歴史を疑いもなく信じていることが何より大きな問題です。その嘘の歴史とは、「日本は一方的に戦争をしかけた悪い国」というものです。もちろんそれは歴史的に言って間違いですが、何が問題かと言えば真実の歴史を知らない人にとって「日本は悪い国」という考えが、「当たり前化(そのことに全く疑問を持たない)」していることです。

 例えば、五年前に安全保障関連法案(安保法案)が国会で審議されました。法案に反対する野党やマスコミは、これを「戦争法案」と言って大反対キャンペーンを展開しました。また国会前では、青法協が盛んに「戦争反対」「戦争反対」を叫んで、いかにも法案が悪法であるように訴えていました。テレビでそのニュースを視ると、もう日本全体が安保法案反対一色で、こんな悪法を政府は成立させるのかという構図が作られていました。

 もちろん戦争はない方が良いに決まっています。でも「戦争反対」を叫ぶだけで戦争はなくなりません。自国優先で動く世界は、そんなに甘くはないからです。現に世界から戦争はなくなっていません。

 大事なのは戦争反対ではなくて、戦争が起きない国にするということです。その最も重要な点には全く触れずに、ただ戦争反対、戦争反対と叫ぶわけです。では、日本が攻められたらどうするかと聞けば、「逃げればいい」というのです。日本がどうなっても、自分さえ助かればいいということです。

 こういう人達は、中国が尖閣諸島周辺で毎日にように領海侵犯をしていても何も反発しない。これも元を糺せば「日本は一方的に戦争をしかけた悪い国」という思いが影響しています。ところが、日本の歴史の真実を正しく知れば、それは嘘(うそ)であるということや、日本が侵略戦争をしたなどとは、とても考えられないことが良く分かります。

 それなのに、なぜ日本が一方的に悪い国だと思っているのでしょうか。これがまさに、日本人が洗脳されてしまった戦後教育の結果です。

 それでどういう現象が起きているかと言えば、日本で生まれて日本人であるべき人が、日本人ではなくなっている。どういうことかと言うと、日本で暮らしていながら、日本人としての自覚が全くない人が多くなったということです。分かり易く言えば、日本人としての「国民意識」がまるで無いということです。国民意識がないので、自分の命さえ助かればいいという人間になってしまうと私は思うのです。

 国民というのは「全くの独り」ではなく、国の一員ということですから、常に国家と自分は繋がっている意識がなければ国民とは言えません。国民の安全は、国の安全を確保できてこそ守られます。当然、国民意識があれば、国民として国家の安全を考えることはごく自然です。それなのに国を考えない。自分の命だけ助かればいいとなる。なので、安保法案は彼らにとって必要はないということで反対になるわけです。

 しかしこの国民意識の喪失は、日本の将来にとって大きな問題です。そのことは皆さんも共通していると思います。では、どうしたらいいのかということになります。

 

・私達には先人の志を受け継いで生きる意味がある

 その前に、私自身が大いに納得させられた話をさせてください。去年、葬儀社を五十年やってきたという人の本を作りました。先ほど興亜漢音で「七士の碑」を紹介しましたが、そこで手を合わせるのは、御霊をお慰めするというのが一般的だと思います。また葬儀や法要、お墓参りなども、故人に対して安らかに眠って欲しいという思いでやられていると思います。私もそう思ってやってきました。

 しかしそれでは、一番大事なことがやられていないということを知ったのです。日本人の殆どは仏教と関係していると思いますが、お釈迦様のお教えは、今、生きている人が幸せになるために説かれたということで、死者のために説かれたものではない。また、お経は死者のために書かれたものではないというのです。

 その話を聞いて、私はびっくりしました。私達が仏教に接するのはお葬式や法事、お墓参りの時などです。それらは全て故人に関係し、その場でお経が上げられます。私達はそういう時にだけ仏教と接するというか、お坊さんと接するわけですから、仏教が今に生きる人のための教え、と言われてもピンときませんでした。

 またこういうことも教えてもらいました。死後、人間はどうなるか、気になるところですが、お釈迦さまは、人は肉体が亡くなっても命は生き続けると教えているそうです。日本人的に言えば肉体は亡くなっても魂は生き続けるということになります。その亡くなられた故人が、目に見えない世界で安らかに眠るとか、安らかに過ごせるというのは、どういうことかということです。それが分かると葬儀や法事の意味も分かってきます。

 いわゆる目に見えないあの世にいる故人に対し、生きている人達が物を届けることはできません。また、あの世に行って故人と会ってお礼を伝えることもできません。ここにお釈迦さまの大事な教えがあるわけです。

 遺された人のいのちと故人のいのちは繋がっています。そして遺された人が幸せになることがお釈迦さまの教えです。遺された人達が幸せに生きていることこそが、故人が喜ぶことだというのです。まして、故人の志を引き継いで生きていたなら、故人の喜びは更に増すことになります。この大事なことを私は全く知りませんでした。

 果たして自分は、故人に恥じない生き方をしているだろうか。実は、それを確認し生き方を見直す場が、葬儀であり、法事であり、お墓参りだというのです。故人のために祈るというのではなく、故人が喜ぶような生き方をする。そのことを私は知ったのです。

 私は昭和二十年の二月の生まれです。父親は昭和二十年三月五日に戦死しています。私は父親を知りませんし、父親も私の顔を見ずに亡くなっています。私は、最初から父親がいませんから、父親がいないのは何も不思議ではありませんでした。私の子供の頃、おふくろが「国に命を懸けるほど人として立派な生き方はない」と教えてくれました。そのお陰で、私の仲間の多くは戦争と言うと国が悪いことをしたという人が多かったのですけども、私は一度もそんなことを思ったことはありません。むしろ国のために戦った親父がいたというのが誇りでした。でも私の思いはそれで終わっていました。

 ところが、この葬儀社の人の本をつくり、父親の志を継ぐのが自分の使命であると気づきました。出版をやる者として、出版を通して日本の為に役立ちたいと思っていた中で、興亜観音に行って松井大将の志、七士の志に改めて思いを馳せ、自分の使命を新たに確信したというわけです。

 

・日本人として「倫理・道徳・品格の向上」を目指して生きる
    

 そこで、先ほどもお話ししたように、日本人でありながら日本国民としての意識がない日本人が多くなっています。これをなんとかしたいという思いで本づくりを始めました。間違った歴史を教えられ、すでに(戦後)七十五年も経っているわけですから、それを改めるというのは至難の業です。至難の業だからこそ、真実の歴史を正しく伝えていくことに大きな意味があると思います。

 これを皆様の言葉で言えば「倫理・道徳・品格の向上」に当たると思います。私達一人一人が、倫理・道徳・品格の向上を目指して生きる。それがすなわち、立派な日本人として生きることになると思うからです。できれば、皆様の志に合致するような本に仕上げたいと思っています。

 そこでまず考えたのは、人というのは、自分の意見と違うことを言われると、まず反発の感情が出てくるものです。まして自分が信じているものに対して「違う」と言われれば、なお反発します。そこで思いついたのが、日本の歴史を説明するのではなく、日本の歴史を物語として伝えることです。物語を読んで、本来の日本人を感じてもらいたいのです。

 いろいろ考えて、最初にユダヤ人の命を救った樋口季一郎少将の話をもってきました。昭和十三年三月、満州国の特務機関長をしていた樋口少将は、ナチス(ドイツ)の迫害から逃れてきたユダヤ人が約二万人、吹雪の中、満州国に入れずに立往生していることを部下の報告で知ります。受け入れるには大きな問題がありました。日本とドイツは同盟国であり、ユダヤ人を受け入れればドイツから抗議を受けることは明らかだったからです。

 決断によっては自分が処罰されるかもしれない。しかし、人命に関係する重大問題です。人命を守るのか、自分の立場を守るのか。結論は「受け入れる」のですが、その時の我が身の損得を抜きにした樋口少将の決断と行動は、まさに日本人を感じます。後で分かったことですが、樋口少将は松井石根大将の教えを受けていたそうです。こうした軍人の行動を知ると、間違いなく本来の日本人を感じます。

 

・日本人には個という思想がないようである
  

 次に取り上げたのが、新渡戸稲造の『武士道』に出てくる八つの徳目「義、勇、仁、礼、誠、名誉、忠義、克己」です。なぜ取り上げたかと言えば、一言で日本人と言っても、具体的に日本人像をうまく表現できるかとなると、私自身がそうなのですがはなはだ疑問です。もちろん勤勉、正直、質素、節約、人に親切、自分のことより人の事を優先するなどの日本人らしさは語ることができますが、そうではなくて、ある程度日本人を表現する共通した思いもあっていいのではと考えたわけです。

 八つの徳目の中から二つ、紹介したいと思います。一つは「礼」です。これは国民を考える場合に非常に参考になります。簡単に言えば、お互いを思いやる お互いに感謝するということですが、人間の細胞を例にとって説明すると分かり易くなります。人間の体は細胞によってできているわけですが、その細胞の一つ一つが自分の役割を果たし、お互いが調和して全体を生かすのが礼の意味だということです。

 細胞を国民に言い換えれば、国家と国民の関係もよく理解できます。国家は関係ないと国民が自分勝手に生きてしまえば、国家は崩壊するということになります。一人一人が自分の役割を果たし、お互いが調和して国を生かすのが国民だということになります。

 新渡戸稲造は「礼」の項目で、礼の実践のためには、精神の陶治、心の練磨を勧めています。それはまさに「倫理・道徳・品格の向上」を目指して生きるということに通じていると思います。

 もう一つ「忠義」です。主君に義を以て仕えるということですが、ここで一つの発見がありました。多くの日本人が学んでいるもので、『論語』や中国の古典があります。その基をなす儒教に、人が守るべき基本的徳目として「五常」があります。仁、義、礼、智、信の五つです。しかし、そこには忠の言葉はありません。また孟子の教えである五倫――「父子の親」「君臣の義」「夫婦の別」「長幼の序」「朋友の信」――もありますが、その中にも忠の文字はありません。

 忠義というと、封建時代、主君が権力によって家臣を服従させるように捉える人もいますが、私はそうではないと考えています。忠義というのは、命令ではなく家臣が心をこめて主君のために尽すということです。それが結局家臣の喜びであり、主君を守ることにもなります。さきほどのいのちの繋がりの話をしましたが、主君と家臣は心で繋がっているのです。すなわち主君と家臣は身分として違いがあっても、一体の存在であるという認識が日本人にはあると私は思うのです。こうした日本人の姿を見てみると、どうも日本人には個という思想がないように感じてきます。

 その象徴的なものが天皇陛下と国民の関係だと思います。西洋的に捉えると、天皇は権力者であって国民を抑圧してきたとなりますが、天皇陛下は権力者ではなく権威のご存在です。常に国家安泰と国民の安寧を祈られておられます。その天皇陛下の御心を受けて、国民が忠義の心を以て生きる。これが日本人だと思います。その関係を日本は、天皇陛下としては一二六代、皇紀二六八〇年、世界一長く続けているのです。

 こんな素晴らしい日本を、嘘の歴史で崩壊させてはならない。そう思うわけです。

 

・よくぞ日本を守ってきてくださった
  

 こうして日本人を感じながら、いよいよ日本の歴史の項に入ります。ここで大事なことは、世界は日本一国だけで生きているわけではありません。いろんな国との関係の中で生きています。歴史を見る時、この視点を無くしてしまうと「日本が何々した」となって、なぜそうなったのかの原因が全く分からなくなってしまいます。そこで今回は、世界の中での日本の歴史がどうであったかを見ていきました。

そう考えて歴史を調べていったのですが、私にとって想像以上の難作業でした。原稿書きが、一行も前に進まない日が数多くありました。もともと読書が嫌いだった私は、人の話を聞いて理解できたとしても、読書で知ったことをまとめる力がないわけです。でもお陰様で、もの凄く勉強になりました。そして、大きく二つのことを学ぶことができました。

 一つ目は、先人の方々が、よくぞ日本を守り続けてきて下さった、ということです。

 厳密な意味で言えば、日本はまだ真の独立国家とは言えませんが、国家として「日本」が存在することの有り難さをしみじみと感じました。現在の日本では、国が亡くなるなど思いもよらないことでしょうが、亡国の民族を知れば、自分の国が存在することが、いかに有り難いかが分かります。日本はあまりにも平和過ぎて、その有り難ささえ気づかない日本人がいるわけです。

 二つ目は、日本を守り続けてきてくれた先人に対し、心から感謝の思いが湧いてきたことです。

 その二つを感じたことで、後に続く人達にも同じようなことを感じてもらえる国づくりをしていかなければならないと思いました。そんな思いがあって、書名を『日本人で良かった 教えてくれてありがとう』にしました。

 なぜ私がそのように感じたかと言えば、日本の歴史を知れば知るほど、日本人は真面目に日本を守るために生きてきた。日本がアジアを侵略したというのは全くの嘘であることが分かってきたからです。私でも感じることができたのですから、誰だって日本の歴史の真実を知れば、日本が好きになり、日本人の心が目覚めるはずです。だからこそ歴史を学ぶことは、とても大事だと思うのです。

 

・ローマ教皇が認めた奴隷と植民地政策
     

 ところが日本の現状は「日本は侵略戦争をした悪い国」という考えが当たり前化しています。何故そうなっているか、歴史を知るとそれが分かってきます。

 例えば、わずか八十年前までアジア、アフリカの国々は、白人の植民地でした。その始まりは新大陸発見から始まっています。一四五二年、ローマ教皇ニコラウス五世は、ポルトガル人に「異教徒を永遠に奴隷にする許可」を与えます。その三年後の一四五五には「異教徒の土地と物品を所有する権利をポルトガルに独占的に認めた」のです。奴隷と植民地をローマ教皇が認めたということです。

 
 さらに一四九二年には、スペイン国王の支援を受けたコロンブスが大航海で新大陸発見したことで、今度はローマ教皇アレクサンデル六世が、一四九四年にヨーロッパ以外の新領土は、東側はポルトガル、西側はスペインに属するというトルデシリャス条約を発効させたのです。現在、南米がスペイン語やポルトガル語を使っている理由は、ここにあるわけです。何と身勝手な、酷い話です。

 大航海が可能になってアフリカ、アジアの国々は植民地化され、その勢力が日本にもやってきました。それが明治維新の大きなきっかけになります。日本はなんとか独立を守らなければならない。新しく誕生した日本政府は、各国に日本と正式に国交を結ぶべき親書を送ります。

 それに対して朝鮮から、なかなか返事がこない。日本にとって朝鮮半島は、常に脅威となる存在でした。ですから日本は、なんとしても朝鮮には独立を維持してもらい国交を結びたかった。ところが当時の朝鮮は、清によって牛耳られていて、国交を結ぶには清の許可がなければならない状態にありました。

 日本は朝鮮を独立国として認めたい。しかし清国は今まで通り属国にしておきたい。日本と清国は、お互い朝鮮に軍隊を派遣しないことで合意したのですが、朝鮮で内乱が起きた時にその鎮圧を朝鮮が清国に要請したために日本との約束は破られ、日清戦争へと繋がっていくわけですが、日本が望んでいたのはあくまで朝鮮の独立であって、朝鮮を侵略したのではありません。

 日露戦争は日清戦争後にロシアが朝鮮や満洲に勢力を拡大してきて、日本の安全を脅かされ、これまた日本の独立を守るということで戦ったのであって侵略戦争をしたのではありません。

 また中国においても日本は、侵略戦争などしていません。日中戦争という言葉が今では定着していますが、私は頑としてシナ事変と呼びます。日本はシナに宣戦布告はしていません。戦線不拡大が日本の方針でしたから、あくまで事変なのです。それを日中戦争と呼んで、いかにも日本が侵略したような印象を与えているわけです。

 大東亜戦争で、日本が東南アジアの国々で戦ったのは植民地支配していた白人です。これも戦後の教育では、全く逆に教えています。これだけでも日本が侵略戦争をしたなどというのは、嘘であることがわかると思います。

 

・悪いのは全て日本という嘘の歴史をでっち上げたGHQ
  

 白人の植民地政策は、武力で現地人を支配し植民地は略奪の対象でしかありませんでした。それに対して日本はどうだったでしょうか。満州では安全が確保され、年間約一〇〇万人の中国人が移住してくるような国になり経済も発展しました。日清戦争の勝利で統治することになった台湾は、衛生面でも農業の面でも経済の面でも改善され国として大きく発展しました。日韓併合の朝鮮半島では、現在言われている、名前を強制的に変えられたとか、土地を収奪されたとかはまるで嘘で、朝鮮の発展に日本はむしろ多額のお金を使って貢献しています。

 また第一次世界大戦で委任統治を受けた南洋諸島の統治は島の人達に喜ばれました。大東亜戦争で白人を押し出した後、現地の国々が独立できるように軍隊の教育にもあたり、それがアジアの国々が独立する大きなきっかけになっています。

 それは白人の統治とは真逆で、日本は現地の発展に努めました。このことは白人にとって脅威の種です。なぜなら、これが世界中に知れ亘ったら、自分達がやってきた植民地政策が非難されてしまうからです。

 そこで白人国家は考えたわけです。自分達の悪行を隠すため、もしくは悪行はなかったことにするために、全て悪いのは日本だということにしようと。それが先ほど斎藤顧問がお話しされた歴史観で、GHQによる占領政策であったわけです.

 それが見事に実現してしまったのが現在の日本の姿です。そしてそれを疑いもなく事実と思っています。今年は昭和で言ったら昭和九十五年、戦争は昭和二十年に終わっていますから、戦後七十五年が経っていることになります。仮に一世代を二十五年とすれば、すでに三世代、親の世代が替わっていることになります。

 世代が替わるごとに歴史の真実は薄められ、GHQがでっち上げた嘘の歴史だけ引き継がれてきました。しかもそれが教科書にも書かれている。その教育の中で育った人達は、それが嘘と気づかないまま、「日本は悪い国」というのが真実だと思っているわけです。

 

・歴史を学ぶとは私達が未来に向って生きること
    

 自分が生まれ育った国が悪い国と教わったら、日本人としての誇りを持てるわけがありません。日本を守ろうという意識も、当然、愛国心も生まれてきません。逆に日本が嫌いになってしまいます。人間は、自分で自覚していなくても共同体の中で生きていますから、自分の所属する国が嫌いになれば、心の安心は得られません。暴力的になったり逆に引きこもりになったりします。そういう人が日本に多くなっていることからもそれが分かります。

 どこの国も、自国民として誇りを持つ教育をします。その柱になるのが歴史教育です。今回私は、この誤った日本の歴史を糺すために、明治維新から大東亜戦争までを取り上げました。友人にその話をしたら「それは過去の問題だ。大事なのはこれからのことだ」と言われました。その通りです。しかし日本の歴史を学ぶのは過去を振り返るだけではありません。日本を知り、日本を守ってきてくれた先人の思いや願いに触れることで、今の私達がどう生きたらよいのかを教えてくれるのです。ここに歴史を学ぶ重要な意味があると思っています。

 今回の本で、まず日本人を感じてもらいたいという話をしましたが、マレーシアの独立に大貢献した谷豊と言うハリマオの話も取り上げています。なぜ谷豊ことハリマオはマレーシアの独立運動に一生懸命戦ったのか、その出発点は白人による植民地政策に対する憤慨でした。谷豊のお父さんは福岡出身の床屋さんで、マレーシアで床屋さんをやっていました。

 日本人は真面目に働き現地人にも親切に接します。当時マレーシアはイギリスの植民地でした。白人は中国人の華僑に権限を与え統治していました。中国人は権限を持っていますから、横暴に振る舞うことができたわけです。そこに日本人がいると面白くない。ある時、中国人による暴動があって、谷豊の妹が殺されてしまいます。それで中国人の犯人が逮捕されて裁判にかけられました。当然、厳罰が課せられると思っていたのに、なんと言い渡された判決は無罪。中国人がイギリスの裁判関係者に賄賂を渡していたのです。

 これに頭にきた谷豊は、日本人を捨てハリマオと名乗る義賊になりました。ハリマオはイギリス人とか中国人の金持ちのところから、お金を盗み貧乏なマレーシア人に配りました。現地人から圧倒的に支持されました。やがて逮捕されるのですが、現地人から支持されたことが大きな力となって、ハリマオはマレーシア独立に大きく貢献することができたのです。この物語も日本人を感じさせてくれます。

 

・忠臣楠公之墓を建立した水戸光圀の思いに触れる
  
   

 今回の本をまとめながら「これが日本人なのか」と強く感じたことがありました。それは神戸市、湊川神社境内にある「嗚呼忠臣楠公之墓」は水戸黄門で有名な水戸光圀が建立したと知ったことです。皆さんはすでに知っておられることでしょうが、私にとっては衝撃でした。

 徳川幕府は国学として「朱子学」を採用していました。儒教ですから上の者を敬うという考えは徳川幕府にとって体制を保つために非常に好都合でした。そのトップは当然、徳川将軍です。水戸光圀は副将軍ですから、徳川幕府の支える重要なポストの一員です。

 それなのに、なぜ楠木正成のお墓を建立したのでしょうか。そこが私にとって不思議でした。居ても立っても居られない。湊川神社に行ってきました。天皇に仕える臣下の思いを感じて参りました。光圀は徳川幕府の一員ではあるけれども、国家を考える基盤は徳川家ではなく、皇室を中心とする日本だということです。それは光圀が編纂を始めた、いわば天皇記ともいうべき『大日本史』でも感じられます。

 学ぶと新しい発見があります。私自身、本当に勉強になりました。最後になりますが、先ほど国民意識のことをお話ししましたが、国家「君が代」の一節「さざれ石の巌をとなりて」が国民のあり方を明確に示していると私は思っています。一人一人が国家を支え、巌となる国づくりをする。それが「倫理・道徳・品格の向上」であり、立派な日本人として生きることに繋がっていると思います。

 本日は、こういう機会を頂きまして誠にありがとうございました。皆様の、益々のご活躍をお祈りいたします。

 

 二回に亘り、斉藤社長より本の内容の紹介をして頂きましたが、是非一度手におとりになり、内容に触れて頂きたいと思います。

 また、お知り合いの方々にもご紹介戴きたいと、編集委員会よりお願い申し上げます。

 

青年戦士紹介

日本青年社 古代遺跡調査委員長

沖縄県与那国支局長

新嵩喜八郎
 

【私の生まれ島の古今】

 私の生まれ島、日本最西端に位置します与那国島は東京から一、九〇〇キロ、那覇から五〇〇キロ、石垣島から一三〇キロ、台湾まで一〇〇キロ、そして東西に十二キロ、南北に四キロの木の葉の形をした三集落で世帯数750戸、人口一、七五〇名の南海の孤島であり国境の島です。島に高校が無い事が過疎化の要因となり毎年過疎化が進んで学校が一部廃校になる寸前でした。

 沖縄県に四十九島の有人島がありますが、戦前の与那国島は台湾との交易で一番裕福な島でした。与那国島で捕れましたカジキやかつお節また島の奥様達が飼育した豚は、台湾向けの荷物を満載にして夕方に出港。明け方に台湾東海岸の蘇澳港(すおうこう)に入港。台湾の恩恵を得ており島の人々の就職活動、勉学も台湾に依存の生活でした。台湾からの船に沢山の生活物資が島の人々の生活と活力を潤わせたのです。

 台湾帰りの娘さん達はハイカラさんと言われてもてたそうですが終戦となって台湾と往来が出来なくなりました。終戦で日本には薬品や生活物資がありません。処が沖縄には米軍の薬莢(やっきょう)や横流しの物資が潤沢にあり、与那国島を中継地とした事が人口増加となり当時流動人口を含込みで約三万人に膨れ上がり一九四七年の六月に村から町へ昇格したのです。

  

 台湾、香港、日本本土が物資の輸送先ですが、海賊が横行する大変な海域で、流通貨幣は軍票(B円)、ドル、日本円、台湾ドル、中国円が流通し当時交換物資の台湾米を伝馬船から降ろした米俵を肩に担いで運ぶ途中で、小さな穴の開いた米袋から米粒が少しずつ落ちるのですね。道端に米が散らばるのです。その様子を余談ですが当時与那国島の鶏(にわとり)はお米が散乱しすぎてついばなかったと言われておりました。当時の事が「なつこ」と言う小説になり一時与那国島はなつこ旋風で観光客が少し増えた事がございます。

 その後、取り締まりが厳しくなり、中継地としての今までの裕福な生活は過疎化と共に無くなり現在では前述の通り一、七五〇名の人口ですが、一時は一、六〇〇名を割るという事態まで人口減少がありましたが自衛隊通信基地のお陰で島の人口が増え廃校も無くなりました。島も経済効果が以前と比べ住民税、嗜好品の売り上げや隊員家族友人等の来島で大変に島を潤わせて頂いております。

 私見を言わせて頂きますと、日本最西端の島であり西の玄関口である与那国島は、教育こそ日本の島々と同様にまだまだ格差がありますが、僅か七~八名の小学校にりっぱな体育館があり学校設備に関してありがたいと思う点があります。日本人としての生命、財産の権利はありませんでした。

 有名な評論家、櫻井よしこ先生が与那国島は、ピストル二丁で守れるわけではないと言っておりました。たった二名の警察官の事を知っているのです。また台風時に停電になりますと、台風情報がラジオで聞こえませんので車中で聞くしかありませんでした。台湾からの電波障害で台風情報は聞こえず何故政府は、生命と財産を守って貰えないのかと憤慨したときもありましたが衆議院議員の尾身幸次代議士が与那国島にお見えの際にお話ししましたところお帰りになって、今までのAMをFMの電波に変え難聴電波を解消してくださいました。処が中国とお隣の台湾との紛争で与那国島と台湾中間漁場に砲弾が撃ち込まれる事態があり漁師共々与那国住民は生きた心地がしませんでした。陸上自衛隊通信部隊駐屯地が出来、一時反対派(主に島外の方々)もおりましたが隊員方々が台風一過の後片付けや家族隊員の皆様が色々の催事事に参加して頂き、やっと与那国島島民が日本国籍を取得できたと喜んでおります。

 私の生まれ島与那国島の流れを文字に致しました。乱文での失礼をお詫びいたします。

 諸先輩方々並びに同志の皆様のご活躍とご健康をご祈念致しますとともに今後とも、ご指導ご教示を下さることをお願い申し上げまして筆を置きます。 毎日感謝