特別寄稿「倫理・道徳・品格の向上」
医学博士 大僧正 池 口 惠 觀

 陽明学と熊沢蕃山
 江戸時代初期の陽明学者で熊沢蕃山(ばんざん)という人物をご存知でしょうか「日本陽明学の祖」は、江戸時代初期の人で、「近江聖人」と呼ばれた中江
藤樹ですが、熊沢蕃山は中江藤樹(とうじゅ)より十一歳年下で、藤樹の直弟子です。
 陽明学というのは、「思想を持つだけでなく実践を伴わなければ学問とは言えない」と考える「知行合一」などの思想が特徴の学問で、中国の民の時代の学
者・王陽明が創始者です。
 その陽明学が江戸時代初期に中江藤樹によって取り入れられ、それを弟子の熊沢蕃山がさらに広めたのです。
 陽明学は幕末の攘夷派・倒幕派の人物にも影響を与えており、大塩平八郎、西郷隆盛、佐久間象山などは陽明学の信奉者であったようです。
 特に、奉行所の与力(よりき)という幕藩体制側の人間でありながら、天保の大飢餓にあえぐ庶民のために叛乱を起こした大塩平八郎は、陽明学の体現者
だったと言われています。また、松下村塾で高杉晋作や久坂玄瑞(くさかげんずい)などを教えた吉田松陰も陽明学の信奉者の一人でした。
 徳川幕府は、統治の必要上、思想を優先する朱子学を官学としていたのですが、思想の実践を重視する陽明学が江戸初期から幕末にかけて武家社会の底流に
深く浸透して、やがて明治維新につながったのです。
 話しが横道にそれましたが、熊沢蕃山と中江藤樹の出会いに関して、面白い逸話が残っています。蕃山が近江を馬で旅していた際、財布を馬の鞍に付けたま
ま、馬を返してしまいました。しばらくしてから気がついた蕃山が、もう財布は戻ってこないとあきらめかけたとき、まご馬子が財布を持って返しに来たので
す。
 蕃山が礼金を渡そうとすると、馬子は「当然のことをしたまでです」と言って、受け取りません。蕃山が仔細にそのわけを尋ねると、馬子は「中江藤樹先生
の教えです」と答えたのです。そこで蕃山は早速、中江藤樹の門を叩き、そのまま弟子入りしたのです。
 中江藤樹のもとで三年ほど、陽明学を学んだ蕃山は、二十六歳のとき、陽明学に傾倒していた備前岡山藩主の池田光政公のもとに出仕し、四年前に全国で初めて開校された藩校「花畠教場」(はなはたけきょうじょう)を舞台に精力的に活動を始め、光政公に随行して江戸藩邸に勤めたこともあったようです。
 また、三十二歳のときには、光政公が構想していた藩の庶民教育の場となる「花園会」の趣意書とも言うべき会の理念・目的を起草しています。これは、蕃山が岡山藩を離れた三年後の一六七〇年に、日本初の庶民の学校「閉谷学校」(しずたに)の開校に結実しています。この閉谷学校は、現在も岡山県立和気谷高等学校として残っています。
 蕃山はその後も、光政公の篤い信頼を受けて、大洪水と大飢餓の危機からの脱出に奔走したのをはじめ、零細農民の救済、治山、治水対策等の土木事業、農業政策の充実など、藩政改革に果敢に取組みましたが、守旧派との対立が表面化すると同時に、朱子学を王道とする幕府からも睨まれて、一六五七年に三十九歳で岡山藩を去ることを余儀なくされました。
 その後、熊沢蕃山は京都で私塾を開いていますが、これも幕府に監視された挙げ句、京都から追放処分を受けています。さらに現在の奈良県吉野町や京都府木津川市に隠栖した後、蟄居・謹慎の身として、いくつかの藩の預かりとして、幽閉され、最後は下総の国・古河城内に幽閉中、七十三歳の生涯を閉じています。
 四十歳以後の熊沢蕃山は、まさに浪々の身で自由も束縛されながら陽明学者として粘り強く執筆活動を続けています。蕃山の代表的な著作の一つに、五十歳
を越えた頃に書かれた『集義和書』という作品があります。「集める・義務の義・平和の和・書物に書」と書いて『集義和書』です。
 蕃山はこの本を書いた目的を、「人情時変を知るに便あらん事を思うなり」と書いています。つまり、「現実に民を治める武士たちに、人間世界の現実の多
様な事態に適正に対応する法を説く」ために書いたということです。
 昨今の政治をめぐる問題では、政治家や官僚が政府のトップの意向を忖度したとか、面従腹背したとか、いろんな駆け引きが行われたことが問題視されているわけですが、熊沢蕃山は政治を行う側が目をむけなければならないのは、民衆の気持ちや、社会の変化への真摯な対応だと説いていたのです。
 『集義和書』の中身を少しだけ紹介しておきましょう。この書物の最大の特徴は、民からの質問状「来書」(らいしょ)に対して、蕃山が返書で答える、一問一答形式になっている点です。冒頭、「博学で、人々に人の道を教えるほどの人物の中に、不幸不忠な者がいるのはなぜでしょう」という質問に対して、蕃
山はおおむね次のように答えています。
 「武芸に優れた人でも戦で手柄を立てたことがない人がいるように、深く学芸を修めた人でも、不幸不忠な人はいます。それは種々の武芸・学芸は未節的な技術・技能に過ぎないからです。逆に、生まれつき仁愛に深く、人情に厚い人は、学問をして人の道と学ばなくとも、孝行を尽くし、忠節を尽くすことができるものです。
 しかし、学芸・武芸の技術・技能の側面がすたれてもいいという道理はありませんから、昔から広く武芸・学芸の道を教えて、人々の迷いを解き、勇気ある人材を育成したり、強健な若者を育てて、広く国益の伸張を図ってきたのです。したがって、博学だが不幸不忠の人物は、学芸の未節だけを知り、本質を知らない人です。
 天は全てが揃った全能なものを作り出すことはありません。四足のものには羽がなく、角のあるものに牙はありません。人間も同じで、文才の器用な者は行いの道徳性に欠けるところが多く、逆に道徳的に善い人は文才面で拙いことがあります。
 だから、徳の備わった君子は、知恵と行いの両方を兼ね備えた人物を求めず、一方が備わっていれば良しとします。それに対して、徳のない君子は、人材の短所を言い立てて、美点を見ようとしないので、結果的に善い人材を集めることができないのです。世の中には普通、知恵も行いも備えていない人が多いものです。知恵と行いの一方を備えていれば良しとすべきです」
 熊沢蕃山の見方は非常にクールと言いますか、現実的です。「四書五経」の理論だけを、いくら勉強して身につけたとしても、それを民衆目線で実社会に活かさなければ意味がない」と考えていた蕃山ですから、どうしての現実主義者にならざるを得なかったのだと思います。政治家や官僚がいかに立派な政策を打ち上げたとしても、それが国家・国民にとって有益な結果をもたらさなければ意味がないことを、蕃山は身にしみてわかっていたのです。
 また、「今の世の中には、天下国家の政治に参画するため学問をする人が多いようですが、学者に政治を任せれば、国が安らかに収まり、世の中が平和になるのでしょうか」という質問に対して、蕃山はこう答えています。
「どんな学問をする場合でも、現実的な利益を求めて勉学するのは、論外です。いくら勉強をし知力を増進させたとしても、世間の利害関係の渦の中に取り込まれてしまえば、道徳的な高みからは遠いところに身を置くことになるからです。大体、私たちのようの真実に人の道を求める人間は、現実の政治に果敢に対応することができず、政治に携わったとしても、愚直に古の聖人の打ちたてた法によって世を治めようとして、結局、天下国家を乱すことになるのです。
 古来、政治で才能を発揮した人物は、道徳的な知恵と学問的才能を兼ね備えた人で、人情の趨勢や時勢の変化を洞察する力を持った人たちでした。そういう数少ない人物を選んで、政治を託していたのです。今の世においては、そういう厳しい基準で政治リーダーが選ばれているわけではありません。
 今の世は、その地位に就くにふさわしい身分の人か、一般の人々がこぞって押すような由緒ある家柄の人か、人情のおのずから認める人々の中から、悪徳のない人物を選んでいます。その人物がたとえ無学であったとしても、そのような人物が行う政治は、政治家になるために学問を重ねたような学者が行う政治よりは優っていると思います」
 現在の民主主義とは相反するような政治化論ですが、なかなか含蓄に富んだ意見だと思います。もともと政治リーダーの資質を備えた人物は多くないこと、
人の道を学んだ学者には政治家に向かないこと、周囲の人情に自然に認められる人が政治家になるべきだということ等々、熊沢蕃山の政治家論は、現在の永田町の多くの政治家にとって耳の痛い話しかも知れません。
 『集義和書』にはこの他、「武士の戦に対する心構え」「心法のたしなみ」「悪い藩主が子孫に恵まれる理由」「無欲でいる方法」といった興味深い話が満載されています。関連書が何冊か出ていますので、一読をお薦めします。 
合掌