四月二十九日(昭和の日)
「殉国七士墓前祭」に参列して思う
「殉国七士墓前祭」(愛知県三ヶ根山)の歴史と意義について
副会長 澤井和美

 日本青年社は四月二十九日(昭和の日)愛知県西尾市三ヶ根山頂で斎行された第五十六回『殉国七士墓前祭』に四十五名参列しました。この『殉国七士墓前
祭』は、昭和四十六年にはじめて参列してから今年で四十六年の歳月を経たことから本紙では、今までの活動を振り返りながら『殉国七士廟』と『墓前祭』の
歴史と意義について記すことします。

 『殉国七士廟』とは、先の大東亜戦争終結後、敗戦国であったわが国を一方的に断罪した東京裁判において、いわゆるA級戦犯の汚名を着せられ、昭和二十
三年十二月十一日に絞首刑判決を受け、それから十三日後の十二月二十三日に処刑された七士の墓所の名称です。

 当時、この絞首刑の判決を受けた七士の弁護士は、刑の執行前に、刑執行後、家族への遺体の引渡しをマッカーサー司令部を訪問して請願しましたが了解を
えることができませんでした。これでは、遺体も遺骨も遺族にわたすことができないことを知った数名の有志たちは、「せめて遺骨の一部でも遺族にお渡ししたい」
との一念で、火葬場から遺骨を盗み出すという無謀ともいえる計画をしました。

 しかし、そのためには、刑の執行日を調べなければなりません、そこで一人の有志が、東京裁判に関与した某アメリカ検事に近づき、クリスマス前夜の十二月二
十三日が刑の執行で、火葬場は横浜市久保山火葬場であることがわかったのですが、死刑執行当日の十二月二十三日は、米国の監視が厳重で目的が果たせ
ず、翌日の二十四日、クリスマスイブに浮かれて見張りが手薄になる夜半、黒装束に身を固めた三文字正平弁護士と市川伊雄(これお)住職は、飛田火葬場長
の案内で目的地に近づき、真っ暗な中で灰をかき集めましたが、見つかれば殺されますから、想像以上の難事でした。

 こうして、得た遺骨は、一時、人目を避けて伊豆山中に安置され、その後、遺族や政財界、各有志の賛同を得て、愛知県の三河湾国定公園三ヶ根山頂に埋葬
して墓碑を建立、戦後十五年経った昭和三十五年八月十六日、関係者と遺族が、列席して初めての慰霊祭が行われました。

 では、なぜ日本青年社が『殉国七士墓前祭』に参列するのか、それは、わが国が戦後六十年を迎えた年に掲げたスローガン『東京裁判再申請署名活動』でお
わかりのように、戦犯の汚名を着せられながら、一切の弁明もせずに、日本を守るために、草葉の露と化した英霊の名誉回復と戦後歪められた我が国の歴史認
識の見直し、日本古来の崇高な精神文化を回復することにあります。

 最後に、わが国は戦後七十二年を迎えましたが、未だ健全な主権国家といえる体制にありません。その歪められた歴史認識を明らかにするためにも、皆様に
は『殉国七士墓前祭』の歴史と意義をご理解いただくことを願って止みません。 以上