平成二十八年度「北海道キャラバン隊」活動報告

 

日本青年社恒例の「北海道キャラバン隊」は今年で三十一回を迎えた。当初は「北方領土奪還」を強く訴える活動であったが、平成二十一年三月に、日本青年社がロシアを訪問して政府関係者と日ロ両政府の間で膠着状態に陥っていた「領土返還交渉」再開の道筋をつけた。
以後キャラバン活動の最終日に、ロシア札幌総領事館を訪問して北方領土返還に向けた会談を行っている。特に今年の総領事館訪問は、例年以上に有意義な会談であった。

九月一日(木)十七時〇〇分 北海道キャラバン隊車輌六台、総勢三十四名が大洗港を出港。現地で北海道本部のメンバーと合流する。船中では今年のキャラバン活動の目的と意義の確認と勉強会が行われた。(船中一泊)

九月二日(金」十四時〇〇分 苫小牧港に到着。下船後、車列を整え根室に向けて出発。台風十号の影響により当初の出発予定が一日遅れたため、この日は根室まで四七〇キロの距離を走ることになった。出発してから約八時間後の二二時〇〇分、根室に到着。根室では、羽田から飛行機で北海道入りしたメンバーと合流。(根室一泊)

九月三日(土)
 早朝より北海道本部の社員が納沙布岬の「北方領土奪還碑」の清掃と祈願祭の準備を行う。キャラバン隊は〇八時〇〇分、宿舎を出発して日本の最東端である納沙布岬に向けて出発。根室市役所には「返せ北方領土」「北方領土返還」の文字が見える。納沙布岬では北方領土奪還祈願祭を斎行。祈願祭終了後、一路、阿寒湖へ。(阿寒湖一泊)

九月四日(日)〇九時三〇分 阿寒港御前ホテルを札幌に向けて出発。高速道路から見える風景は、台風九号の影響で例年と大きく異なり、南富良野の辺りは、山が崩れ、木が倒れ、川は茶色く濁っている。胸が痛む思いであった。
十七時〇〇分、札幌に到着。(札幌一泊)

九月五日(月)〇八時〇〇分 札幌神宮に向けて出発。札幌神宮参拝後、大通公園で停止街頭演説と市内遊説を行う。苫小牧港に到着
十八時三〇分 苫小牧港を出港(船中一泊)

九月六日
 ロシア連邦札幌総領事館に赴く訪問団は滞在を1日延期して札幌にとどまる。

九月六日(火)十三時三〇分 大洗港到着、解散式。


【ロシア連邦北海道総領事館・会談概要】

 九月六日(火)午後三時 平成二十一年のロシア訪問以降、恒例になっているロシア連邦北海道総領事館を日本青年社を代表して千葉州時各県奉賛会会長、山本正實理事長、大久保叡統括長、富施光治会長補佐が訪問した。
 我々は今回の総領事館訪問については、六月のラブロフ外相と岸田外相との会談、九月二日の国際会議等では、北方領土返還に期待できる成果が見られなかったこと、そしてロシア側関係者も彼ら自身も責任をもてない発言ができないことから、今回の訪問も民間協力などの他、両国の過去、未来の展望など一般的な会談になるのだろうと思いながら総領事館に赴きましたが、今回は総領事と領事が不在とのことから、カミンスキー、ヴァレーリ三等書記官の出迎えを受け、まず互いに挨拶を交わして会談に入りましたが、冒頭に書記官が『両国の急速な展開交流(経済問題を含む)、十二月の大統領訪日決定を諸手を挙げ喜び、大統領訪日の際は、両国間の問題解決が良好な形で躍進しますよ』との発言があった。この話しを聞いた我々はお互いに顔を見合わせ『領土問題を含めてですか』と質問すると『プーチン大統領と安倍首相の態度、発言を見ればそう考えるのが当然であり、妥当ではないですか』との返事に続いて、「ロシアとの経済担当責任者の設置による両国間の経済問題の解消、発展、そして北海道にロシア側の経済窓口の設置許可と設置等などいろんな問題がよい方向へと向っている。それは正に平和条約、そして領土問題の解決へと向うのではないか、そして私自身、日本を第二の母国と考えているからです。よい方向に向ってほしいからです」とのことでした。

 最後にプーチン大統領の山口県訪問の際、大統領との同行がかなうのなら、長年、北方領土問題解決に努力し、民間団体として訪ロしてロシアとの友好に努
めてきた皆さんとお会いしたいとの思いを話しましたので我々も書記官と同じ思いで領土問題の解決、更なる両国間の友好と山口県での再開を願って総領事館を後にした。

青年戦士紹介
茨城県本部長
日本青年社会長補佐兼東日本管区長
富 施 光 治
私と日本青年社
 私は先輩との出会いが切っ掛けとなって、日本青年社にお世話になることになりました。その先輩とは今は亡き萩野谷輝男さん(後に茨城県本部長)でした。それは昭和五十三年に日本青年社茨城県本部が結成されて間もないことでしたので今でもはっきり覚えています。
 当時、萩野谷さんは尖閣諸島の話しを熱く語っていましたが、実のところ私にはまったくわかりませんでした。それからも萩野谷さんは会う度に尖閣諸島と灯台の話しばかりでしたので、その話しを何度も聞いているうちに、私も興味を持つようになって尖閣諸島に連れて行って欲しいと願うようになりました。しかし、なかなか願いは叶いません。それから十年後の昭和六十三年、日本青年社が最初に魚釣島の建設した灯台を建て替えるということで、私は初めて新灯台の建設に携わることができました。
 しかし、初めて魚釣島に上陸して、自分の考えの甘さを思い知らされました。当時は与那国島から漁船で約八時間、その間、船の床に座っているので尻は痛いし、船酔いはするしといった大変な思いをしました。
そして、いざ魚釣島に上陸してみると、日陰もなく、想像以上の暑さです。正直言って最悪の所に来てしまった。二度と来たくないと思いましたね。(笑)
 そんな辛い思いをしながらも、地元に戻ってしばらくすると尖閣が気になってしかたがない。また行きたくなるんです。とても不思議な島ですね。それからは私は毎年一回灯台の保守点検に行くのが待ち遠しくなりました。しかし、石垣島まで行きながら政府の都合で海上保安庁に出港を阻止されたり、出港しても波が高くてた船が進むことが出来なかったことなどが度々あるので、台風が発生すれば、灯台が心配になって、いつもお世話になっている石垣島社友会の玉城栄一代表と連絡をとって現地の状況を聞いたり、地元の情報提供を受けるのが恒例となりました。
 昭和五十三年、日本青年社が日本の領土主権を守るために、決死の覚悟で、東シナ海の尖閣諸島魚釣島に灯台を建設してから平成十七年二月に灯台を国家移譲するまでの二十七年のうち、私は昭和六十三年から十七年間の尖閣上陸回数は三十二回を数えました。多くの同志も尖閣諸島に上陸しておりましたが、三十二回の上陸を今にして振り返れば、私の運動のほとんどは尖閣一筋だったと思います。
 現在、尖閣諸島は国有地となり、灯台も国有灯台となりました。尖閣諸島の灯台は日本青年社の誇りです。日本青年社社員全員の血と汗の結晶です。私にとって尖閣諸島と石垣島は第二の故郷です。
 私が日本青年社にお世話になって今年で三十八年になります。日本青年社が取り組んだ運動のそれぞれに結果が出始めています。私は日本青年社の社員として、これからも日本青年社魂を忘れることなく、微力ながら同志の皆さんと力を合わせて頑張って行くことを常に心に刻んでいます。

北海道キャラバン隊に参加して
日本青年社北三多摩支部
事務局長 齋 藤 大 助
 平成二十八年度の北海道キャラバン隊は、九月一日から六日の日程で行われました。当初の日程では八月三十一日出発でしたが、台風十号の影響でフェリーが出港できず、一日遅れの出港となりました。私は仕事の都合で三日間の参加でしたが、大変貴重な体験をさせて頂きました。
 九月二日、憂和会代表の堀本代表と共に羽田空港より空路釧路に向かいました。本来でしたら釧路で本隊との合流でしたが本隊が遅れたため、レンタカーにて先に根室に入りしましたが、途中、河川の増水があちらこちらで見受けられました。午後十時にようやく本隊と合流できたので遠路走破の労を癒しました。
 三日、目が覚めると朝から霧がかかって曇り空でしたが、根室は市役所や街全体に『北方領土返還』の看板があったので驚きを隠せませんでした。
 キャラバン隊の各車両が国旗、社旗を掲げて祈願祭を行う納沙布岬へ向います。私は茨城県本部車輌に同乗させてもらいました。その間、天候を心配していましたが、納沙布岬に近づくにつれて晴れ間が広がり歯舞諸島の貝殻島を肉眼で確認することができました。納沙布岬では初代小林楠扶会長直筆の石碑を見て緊張感が高まるなかで祈願祭が行われました。私は改めて北方領土問題の重大さを学び感動しました。キャラバン隊は納沙布岬から釧路に戻り有名な和商市場で昼食を済ませてから阿寒湖へ向いました。阿寒湖での懇親会では大久保統括長の貴重な話しを聞かせて頂き大変勉強になりました。
 四日、本隊は札幌に向けた三〇〇キロの距離を移動日、北海道の広大さに圧倒されました。翌日は北海道神宮参拝。その後は札幌大通り公園での遊説と市内啓蒙活動を控えていましたが、飛行機の時間の関係上、私は心残りのまま本隊と別れて帰路につきました。
 最後ですが、私は各県奉賛会の千葉会長の心遣いで最後の食事は北海道の幸を満喫できました。この度は、キャラバン隊初参加で何も分からない私に色々とご指導を頂きありがとうございました。また茨城県本部車輌に同乗させて頂いた、富施本部長に大変お世話になりました.。
そして、キャラバン隊に参加した総本部役員ならびに隊員の皆様には三日間の運動参加でしたがこの場をお借りしまして厚く御礼申し上げます。