平成20年度 「新春の集い」

平成20年3月13日

 平成20年度「新春の集い」は、600有余人の諸先生、諸先輩、同志諸兄が一堂に会す中、高橋和巳東海中部管区長の指揮に従い厳粛に国民儀礼に行われたことに続き、午後六時、葛西俊夫総本部渉外局長が開会を宣言。会長挨拶では、松尾和哉会長が以下のように挨拶した。

 「改めまして初春のご挨拶を申し上げます。まずは昨年中に於きましては数々のご厚意を賜りましたこと、心より厚く感謝申し上げる次第であります。本年も昨年に変らぬご指導の程宜しく申し上げます。1999年、平成11年、新千年紀をまじかに控え、世界の情勢と社会環境は著しい変化をしておりました。 そのような中、我々日本青年社は総意のもと、意識の改革を以って新たなる民族運動の構築に着手をしたのであります。
 本年は満十年目を迎え、人や環境は変れども十年の年月に変りはありません。かつて我々の先人達は十年をひと昔ととらえ、大きな節目としてきたのであります。我々日本青年社は過ぎた十年を振り返り、思い懐かしむことではなく、これから先十年の展望を見つめ確実の前進することを誓うのもであります。
 我々は生まれることを選ぶことはできません。しかし、その生き方や生き様は自分自身が決めるものであります。泣きごとを言わず耐える忍耐と堪忍は最高の優れた苦行であり、最大の修行であると言われております。人に勝つことよりも自分自身に負けない、そんな生き方を日本青年社は求めて行くものあります。本日ご臨席頂きました多くの同志諸兄の皆様方、そして御来賓各位の皆様方に於かれましては、本年一年が、無病息災、進路大開であることを心よりご祈念申し上げまして御挨拶とさせて頂きます」
と挨拶。

 御来賓ご挨拶では、自民党同志会会長、福田晃丈先生が代表して挨拶をされた。(福田晃丈先生の略歴とご挨拶はこちら

 聖寿万歳は、日本青年社に多大なる御理解を賜わります医療法人仁和会・山梨県の竜王リハビリテーション理事長・医学博士、中原英幸先生の御発声により取り行われた。

 続く鏡開きでは、40人の諸先生が壇上に据えられた三つの鏡樽を囲む中、東京都議会終身議員待遇者・帝京大学顧問・白井常信先生の威勢の良い御発声に合わせて声高らかに乾杯が執り行われた。

 ここでしばしの間、アトラクションを鑑賞しながら出席者全員が更なる親睦と融和を深めた後に、日本青年社新21役、山嵜周平所沢支部副代表・増子博幸城西支部副代表・島元昌也総本部情宣局専任局員三名が順次登壇して紹介された後、篠塚栄一行動隊首都群団長が日本青年社を代表して「平成20二十年度決意表明」を宣言(宣言文はこちら)。続く全国社友会代表挨拶では、同会の理事長、小林明先生より激励の言葉が述べられ、「今年は更なる活動に取り組んで頂きたい」と力強く挨拶された。謝辞は、志村喜一日本青年社副会長が、会場いっぱいの諸先生、諸先輩、同志各位に心からの感謝の言葉を述べた。

 続く手締めは、全員が起立する中で、元茨城県議会議員、元茨城県取手市長、大橋幸雄先生の御発声による三本締めを以って「新春の集い」は滞りなく終了した。

 



自由民主党同志会
福田晃丈先生のご紹介

 福田晃丈先生は、昭和9年2月5日、東京、高輪生まれ。13歳から米国の本派本願寺ミッションスクールに学び、ハワイ大学から早稲田大学政経学部に転入。当時、早稲田大学の運動部全体を纏めていたリーダーであり、日本の体育関係のドンであった西武プリンスグループの総帥、堤義明氏が、アメリカンフットボール部を第一部に昇格せしめる目的で福田先生を早稲田に招聘。福田先生は、早稲田大学学生の身分で、コーチ兼クオーターバックとして活躍。

 なお、プリンス王国をつくる最初のきっかけは、福田先生の御尊父と堤義明氏のお父君である堤康次郎衆議院議長を刎頸の友として、高輪にあった福田家の邸宅と隣接する宮家のお屋敷を合わせてプリンスホテルを建てた時でした。

 さて、自由民主党の実力者、河野一郎先生はかつて、福田晃丈先生の母方の祖父であった平塚常次郎水産大臣のもとで同志として活躍しておられた関係にありました。この一事をもってしても福田先生は政界の濃厚なDNAを持っておられます。

 なおかつ、中曽根康弘先生は河野一郎先生亡きあと、園田直先生と共に、福田家の支援により総理総裁を目指す立場になったのです。

 従って、福田先生が自由民主党同志会の特別顧問に指名されたのは中曽根総理時代であり、爾来変転を経て小泉総理の時に最高顧問に任命され、一年後の安倍総理の時に事務総長を委嘱されて、そして今般、福田康夫総裁誕生と同時に栄誉ある自由民主党同志会の代表に推挙を受けられました。

日本青年社 新年祝賀会 ご挨拶

 本日は新年のお祝いの席に、来賓としてお招きいただき ありがとうございます。日本全国から錚々たる方々がお祝いにご参列されている中、私ごときが新春のご挨拶を申し上げるのは、はなはだ恐縮でございますが、ご指名でございますので一言ご挨拶を述べさせていただきます。

 実のところ私は、国会議員でもなく、その秘書でもなく、また選挙の洗礼を受けた代議士の経験もなく、地方議員の経験もありません。しかし、このたび、政権政党である自由民主党に属する応援団、自民党同志会の代表に推挙されたのでありますが、このことは、今日お集まりの皆さんと同じように、栄誉を求めず、誰に頼まれるでもなく、自らが憂え、国民の生活に思いを致し、国家の経論に志す、その行動を認められてのことであります。すなわち、国家から頼まれ、国民から依頼され、報酬を求めて行動するプロを自任する輩が横行する中で、日本青年社の行動は、真摯に国家の安泰と繁栄を考える結果、無私無欲、設立以来実行力をもって、世論に迎合することなく、憂国の士として行動を取ってこられた。私が共鳴し、実践する中に、私と日本青年社との一致するところが あるのであります。日本青年社と私との行動がまさに兄弟のように呼応する部分があるのは、その精神に於いて同根だからであります。

 思えば、日本青年社と自由民主党同志会とは、青年社の前進である楠皇道隊と共同歩調をとり、左翼集団と闘いで事に対処した、岸信介内閣時代におけるあの安保闘争をきっかけに、昭和46年、佐藤栄作内閣の沖縄返還以来、そこからの強力な結び付きなのであります。思えば、今から50数年前になります、当時19歳であった私は、日本青年社の創設者と同じく自らの行動を起こしたのも共通項としての事実であります。

 ここで皆さんの前でお話しするのはそのような歴史的事実において共鳴し共通するものがあったからであります。いや、あるからであります。

 私は報酬を求めず、すべからく自分の経済力、自分の意思で50年間この道一筋にやってまいりました。

 自民党同志会は、その創設者から始まり、歴代の最高顧問・会長は、自由民主党の副総裁大野伴睦先生、法務大臣木村篤太郎先生、第61代、62代、63代と内閣総理大臣を務められた佐藤栄作先生、第67代内閣総理大臣福田赳夫先生といったように、歴代の大臣、自由民主党の実力者ばかりであります。自由民主党の歴史とともに、自民党同志会は53年の歴史ある日本最古の政治団体であります。

 その同志会会長を無学浅才の私風情が仰せつかったのは、50年余年の半生の長き歴史の中で、なかには心得違いをする者もおって、国家のためにはその膿を出し贅肉を落とせというご鞭撻によってご指導を頂いたものと身を引き締めておる次第でございます。

 古き良さのなかに悪しき古さもあります。

 いま日本青年社におかれましては大きな右翼運動の転換期にあります。国民の一部は、右翼と聞いただけで悪しきイメージを抱き、街宣車と言えばいたずらに騒音撒き散らす不心得者と眉をしかめます。高感度で言うならば、全体の一パーセントにも満たない、いわゆる嫌われ者の代名詞となっておるのであります。

 国を憂い、民を考え、他の人の為汗を流し、国のために血を流し、己のためには決して一滴も涙しない。そのような行動を実践している日本青年社は、保守の中の革新であって、テロ行為などをもって国家の転覆を謀るなどの言動をとる左翼集団とは全く異なり、二十一世紀の右翼の姿を体現しておると考えます。 正に不肖私が標榜している、国家の経論に志し、国に頼まれるまでもなく、民におもねることもなく自らが好んで米塩を求めず、助成金、補助金を受けることなく、自らの費用をもってのその行動実践は、私の実践活動の源泉と共通であると言えるのであります。これ正に、国を思う同志でなくて何でありましょうや。

 今後とも保守本流の日本青年社として、二十一世紀に向けた街宣車などに頼らない新しい高感度ナンバーワンの理想の右翼像を求めて、日本国家のために活躍されんことを祈念し、私ごときで僭越でありますが、力を合わせて国家の繁栄に寄与して参ることを、私自身もお誓い申し上げて、お祝いのご挨拶にかえさせていただきます。

 本日は本当におめでとうございます。ありがとうございました。

平成20年1月22日 山梨県石和温泉ホテル慶山にて