殉国七士の慰霊に新たな波


常任理事 静岡県本部長
杉山 洋



興亜観音に憂国の士集結

 平成二十年十一月二十日、静岡県熱海市伊豆山、興亜観音に於いて、極東国際軍事裁判によってA級戦犯として処刑された殉国七士の法要が厳粛に執り行われた。この慰霊祭は世界連邦日本仏教徒協議会の主催によるもので、会長叡南覚範氏をはじめ事務総長水谷栄寛氏の尽力により実現したものであった。

 殉国七士の慰霊を通じて極東軍事裁判の不条理を明らかにし、戦後社会の歪みを正すという、私たちの運動の新たな地平を拓くものとして、日本青年社はこの呼びかけに応え、静岡県本部、御殿場支部、山憂連合が参加したのであった。初参加の人々で境内はいっぱいであった。ほとんどの人が興亜観音の存在そのものを知らなかったようであった。しかし最近の「田母神論文」や「南京の真実」が多くの人々に「真実は何なのか」という問いを投げかけ、その答えの一片が興亜観音にあると認識されているようであった。

 法要は厳粛のうちにも熱気が溢れるものであった。若い僧侶たちの打ち鳴らす太鼓は伊豆山の山々に響き渡り相模湾に吸い込まれていった。それは一切の弁明もせずに刑場の露と消えた七士の雄叫びにも似ていた。法要の後は場所を移し、食事と「南京の真実」の上映会が行われ、有意義な一日を送ることができたのであった。主催者と共にこの行事を支えてくれたアジア地域戦没者慰霊協会理事長の国府正男氏には心から感謝をしたいと思う。


興亜観音とは

 私たち日本青年社は殉国七士の慰霊行事として、愛知県幡豆町三ケ根山山頂の殉国七士廟に四月二十九日の慰霊祭参列を行う事により実践してきた。建立当時から初代小林楠扶会長の下、責任ある団体として参列してきたのである。日本青年社の原点とも言える殉国七士への慰霊は、日本精神の復活、東京裁判の呪縛からの解放という今日の日本青年社の基本方針を定めた運動であった。それ故三ケ根山については日本青年社の同志は改めて確認する事も必要ないであろう。しかし興亜観音については認識が浅いと思われるので、ここで簡単に紹介しておこう。

 興亜観音は昭和十五年、東京裁判に於いてA級戦犯として処刑された松井石根大将によって建立された。建立の目的は日支事変による戦死者を日本、中国分け隔てることなく慰霊するというものであった。当初中国の地に建立する予定であったが「敵を祀るとは何事か、兵士の士気にかかわる」と反対され、上海と南京の土を持ち帰り、日本の土と混ぜ合わせ観音像を焼き上げ興亜観音と名付けたのであった。松井大将はこの観音堂の精神として「怨親平等」をうたい、日中の平和を祈ったのである。日中の平和を願い祈念した松井大将が、ありもしない「南京虐殺」の責任者として東京裁判で死刑を宣告されたのである。この興亜観音に七士の遺灰が密かに埋葬され昭和二十七年日本の独立が達成されたのであった。しかし占領時代に定めた憲法は改正されず、七士の名誉も回復しなかった。その中で吉田茂が「七士の碑」を興亜観音の横に建立し七士の慰霊を行ったのであるが、左翼過激派による爆破が行われ粉々になってしまったのである。その後、心ある人々により修復が行われ現在に至っている。

 日本青年社では静岡県本部を中心に毎年十二月二十三日、命日の日に行われる慰霊祭に参列している。ここで何故三ケ根山では四月二十九日、興亜観音では十二月二十三日に慰霊祭が行われているのか。疑問が生まれると思う。四月二十九日は昭和天皇の誕生日である。昭和二十一年四月二十九日に東京裁判の開始が告示されたのである。裁判の開始は五月三日であったが、あえて全新聞に四月二十九日に記載させたのだ。東京裁判が天皇に対する否定の意志を明確にする為の演出であったといえる。それでは十二月二十三日の処刑はどうだったのであろうか。この日は今上陛下の御誕生日だ。処刑の記録によれば二十三日の午前零時一分となっている。どうしても当時の皇太子殿下の御誕生日でなくてはならなかったのである。この事だけでも東京裁判の本質が見えてくるではないか。

 東京裁判は天皇陛下に対する報復劇である。この攻撃に対し七士の陛下を守る遺志が貫かれた結果が、七士の処刑であった。これが真実である。

田母神俊雄氏の論文について

 前・防衛省航空幕僚長、空将田母神俊雄氏の論文について慰霊祭の席での代表者挨拶の中で多くの方が触れていたので若干言及してみたい。論文の内容が判明したのは産經新聞の全面広告によるものであったが、その歴史認識に非常に共感を覚えた。

  私たちが殉国七士の慰霊を通じて培ってきた日本という国に対する愛情と、東京裁判によって歪められた歴史の真実を明らかにした勇気に敬服せざるを得ない。しかし日本政府は政府見解に反すると断定し田母神氏の更迭を即決した。政府見解とは平成七年の村山富市首相談話であり、先の大戦を「日本の侵略」だと断定した内容であった。このような党利党略によって実現した社会党首相の「談話」を、我が国はいつまで守ってゆくのであろうか。村山「談話」の否定、破棄がない限り、この種の「正しい主張」が抹殺され続けてゆくことは確実であろう。国民と政府が勇気を持って変えてゆくことにしかその答えはないのだ。

  私たちの殉国七士の慰霊、奉賛活動は、この国の未来を創り出す重要な運動になりつつあることを、再度認識する必要がある。